娘は水中を思い切り泳いだ。小魚たちは娘から距離を開け、邪魔するものはいない。
――このまま、魚になってしまいたい。
本気でそう思った。
誰にもかえりみられず、誰にも殴られず。自由に泳ぐ魚になれたら。
池の周りを、昨夜よりたくさんの蛍が飛んでいる。緑の螢火(ほたるび)は、ふわりふわりと、来訪者の訪れを知らせた。
娘はざばっと水から顔を出した。溜め込んでいた息を吐く。
「水泳ならよそでしろ」
いきなり、聞き覚えのある淡白な声がした。娘はぎょっとして、あわてて胸を隠した。
獏が、眉間(みけん)にシワを寄せて岩の上に立っていた。
「蛍たちが迷惑している。さっさとあがりたまえ」
「い、いつから・・・?」
「たった今だ。その粗末な体を私に見せたいか?」
ぎょっとするやら恥ずかしいやら。娘はわけがわからなかったが、『粗末なもの』呼ばわりされたのが悔しくて、素直に従った。
草むらに投げ捨てたボロ布をかるくすすいで、身にまとう。
「・・・もう、いいですよ」
それまで律儀に後ろを向いていた獏は、ちらりと首だけで娘を確認すると、ようやく岩に腰を下ろした。
気まずい沈黙が流れる。
もじもじしている娘。このまま逃げ出そうか、でもこの人との居心地が悪いわけでは・・・と自問自答している。
先に口を開いたのは、獏だった。
「顔をどうした」
娘は、ひゅっと息をのんだ。見ていないようで、ちゃんと見ていたようだ。
「これ、は」
虐待を受けている。笞(むち)で殴られた。そんな言葉が頭をよぎり、首を振る。なにかの手違いで村長に知れれば、間違いなく斬首されるだろう。
獏は黙り込んだ娘を、じっと見つめた。
濡れた黒髪、月光を帯びる肌は汚れが落ち、つるりとなめらかだ。
しかし、ところどころ赤黒い痣がより際立ち、虫食いだらけの花びらのような、痛ましさをかき立てた。
「言いづらいことなら、これ以上は聞かない」
獏は突き放す。
しかし返ってきた反応は、予想に反するものだった。
――ほろりと花がほころぶように、笑ったのだ。
獏は愕然(がくぜん)とする。笑顔のわけがわからない。
(なにをそんなに喜ぶ? 私はただ尋ねただけだ、怪我の理由が気になっただけだ・・・)
娘はさきほどよりやわらかい表情で、数が増えた蛍を眺めていた。
しっとりとした時間が流れる。
獏だけが、胸の中にほのかに灯る感情にとまどっていた。
――このまま、魚になってしまいたい。
本気でそう思った。
誰にもかえりみられず、誰にも殴られず。自由に泳ぐ魚になれたら。
池の周りを、昨夜よりたくさんの蛍が飛んでいる。緑の螢火(ほたるび)は、ふわりふわりと、来訪者の訪れを知らせた。
娘はざばっと水から顔を出した。溜め込んでいた息を吐く。
「水泳ならよそでしろ」
いきなり、聞き覚えのある淡白な声がした。娘はぎょっとして、あわてて胸を隠した。
獏が、眉間(みけん)にシワを寄せて岩の上に立っていた。
「蛍たちが迷惑している。さっさとあがりたまえ」
「い、いつから・・・?」
「たった今だ。その粗末な体を私に見せたいか?」
ぎょっとするやら恥ずかしいやら。娘はわけがわからなかったが、『粗末なもの』呼ばわりされたのが悔しくて、素直に従った。
草むらに投げ捨てたボロ布をかるくすすいで、身にまとう。
「・・・もう、いいですよ」
それまで律儀に後ろを向いていた獏は、ちらりと首だけで娘を確認すると、ようやく岩に腰を下ろした。
気まずい沈黙が流れる。
もじもじしている娘。このまま逃げ出そうか、でもこの人との居心地が悪いわけでは・・・と自問自答している。
先に口を開いたのは、獏だった。
「顔をどうした」
娘は、ひゅっと息をのんだ。見ていないようで、ちゃんと見ていたようだ。
「これ、は」
虐待を受けている。笞(むち)で殴られた。そんな言葉が頭をよぎり、首を振る。なにかの手違いで村長に知れれば、間違いなく斬首されるだろう。
獏は黙り込んだ娘を、じっと見つめた。
濡れた黒髪、月光を帯びる肌は汚れが落ち、つるりとなめらかだ。
しかし、ところどころ赤黒い痣がより際立ち、虫食いだらけの花びらのような、痛ましさをかき立てた。
「言いづらいことなら、これ以上は聞かない」
獏は突き放す。
しかし返ってきた反応は、予想に反するものだった。
――ほろりと花がほころぶように、笑ったのだ。
獏は愕然(がくぜん)とする。笑顔のわけがわからない。
(なにをそんなに喜ぶ? 私はただ尋ねただけだ、怪我の理由が気になっただけだ・・・)
娘はさきほどよりやわらかい表情で、数が増えた蛍を眺めていた。
しっとりとした時間が流れる。
獏だけが、胸の中にほのかに灯る感情にとまどっていた。

