「イサギ様、おはようございます。本日の作業はどうなさいますか?」

執務室を出て、城内の奥にある小さな工房に入ると、一人の女性が出迎えてくれた。

艶やかな長い黒髪に透き通った青い瞳。

頭には髪色と同じ色をした猫耳がついており、スカートのお尻部分からはしなやかな尻尾が出ている。

彼女はメルシアという獣人だ。

錬金術師ではなく城内で働くメイドだが、個人的に俺の作業を手伝ってくれている。

忙しいはずなのに仕事の合間を縫ってやってきてくれるのは感謝の気持ちしかない。

いつも通りであれば、軽く挨拶して今日手伝ってほしい作業を伝え、一緒に取り掛かることになるのだが解雇されてしまったのでそうはいかない。

「……イサギ様? どうなさいましたか?」

口ごもった俺の様子を見て、メルシアが心配そうに覗き込んでくる。

「メルシア、今日で俺たちの作業は終わりだ」

「ッ!? それはどうしてですか? なにか私に至らないところがありましたか? そうであれば、すぐに改善いたしますので遠慮なくおっしゃってください!」

率直に告げると、メルシアが動揺した様子で詰め寄ってくる。

いつも落ち着いた彼女が動揺している姿は新鮮でからかいたい気持ちもあるが、どうも勘違いしている様子なので茶化すのはやめておく。

「ごめん。言い方が悪かったよ。そういうわけじゃないんだ。メルシアが悪いとかじゃなくて俺の方に問題があってね」

誤解を解くと、メルシアがホッとした表情になる。

しかし、またすぐに不安そうな顔になった。

「そ、そうでしたか。イサギ様の方に問題とは一体?」

ただのメイドであれば詳しく説明する必要はないが、メルシアには仕事を手伝ってもらっただけじゃなく、日常生活のサポートもしてもらっていた。

とても世話になった彼女に詳細を話さないのは失礼だろう。

こちらの瞳を真っすぐに見つめながら尋ねてくるメルシアに、俺は先ほどの件を説明することにした。

「――そういうわけで、俺は宮廷錬金術師を辞めさせられたんだ」

「なんですかそれは! イサギ様は帝国のためを思って活動されていたというのに! 上層部は状況をまったくわかっていません! 無作為に侵略を繰り返し、ロクに管理もしないせいで国内は痩せた土地ばかり! 年々食料の生産は落ち込みを見せて、生活に困っている民も多いんですよ!?」

経緯を話すと、大人しく聞いていたメルシアの怒りが一気に爆発した。

普段、声を荒げることなどまったくない彼女が、強い怒りを見せたことに驚いている。

それと同時に身近に怒ってくれる人がいるのが嬉しかった。

「そうだね。だから、痩せた土地でもたくさん作物が実るように錬金術で品種改良を行っていた。国民が生活に困らないように頑張っていたつもりなんだけど、上層部にとって俺はいらなかったみたいだ」

「……納得いきません。よりによってイサギ様を解任するだなんて……」

「まあ、上層部にとって使いづらかっただろうし、仕方がない部分もあると思うよ」

今までの行動を振り返ると、お世辞にも使いやすい部下だとは言えないと思う。

ノルマ以外の部分はかなり自由にやっていたし、もっと使いやすい部下をガリウスが欲しがるのも無理はない。

「今からでも遅くはありません。直談判いたしましょう」

メルシアが決意のこもった顔で動き出そうとするが、俺はそれを引き留める。

「気持ちは嬉しいけど、もういいんだ」

「イサギ様は悔しくないのですか?」

「悔しい気持ちはあるよ。だけど、それ以上にもういいかなって気持ちが湧いてきちゃってね……」

先ほどの一件には俺も腹立てていたが、さらに強い怒りを見せる人がいると、なんだか妙に冷静になるものだ。

今までどんな皮肉や嫌がらせを受けてきても堪えてきた。

それは自分のやっていることは必ず帝国の役に立つと思っていたからだ。

だけど、面と向かってお払い箱宣言されると、自分の行いや努力に疑問を抱かざるを得ない。

必要とされていないところで無理に頑張ったところで無意味なんだ。

そんな俺の達観した姿を見て、メルシアは残念そうな顔になった。

品種改良にはメルシアも手伝ってくれていたんだ。それが成果を見せず、中止することになって彼女も悔しいのだろう。

「イサギ様はこれからどうなさるのですか?」

「まだ何も考えていないよ。俺には家族もいないし、帰るべき場所もないから」

俺は帝都にある孤児院で育った。

自分を生んでくれた両親の名前や顔も知らないし、生まれ育った故郷といえる場所もない。

孤児院に戻れば歓迎してはくれるだろうが、そこで働いて生活できるかは別問題だ。

「今日の今日まで解雇されるなんて思っていなかったから、何も考えていなかったよ。本当にどうしようかな……」

「……で、でしたら、私の故郷に来ませんか?」

ぼんやりと天井を見上げながら呟くと、メルシアがそう言った。

「え?」

「こ、これは別に深い意味とかではなく、あくまで生活拠点を移す意味合いでの提案です!」

深い意味というのが、どのようなものかわからないがメルシアは純粋な厚意で誘ってくれていることはわかる。

「なるほど。メルシアの故郷って確か獣王国だったよね?」

「はい。とは言いましても、首都からかなり離れた辺境にある小さな村ですが」

獣王国というのは、人口の八割が獣人族で占められている獣人の国だ。

大昔より存在している大国であり、国土の広さはレムルス帝国以上である。

「誘ってくれるのは嬉しいけど、俺なんかが役に立つのかな?」

「立ちます! イサギ様ほどの錬金術師がいてくだされば、皆とても喜ぶに違いありません! それに私の村の土地は帝国と同じ悩みを抱いていますから……」

「そういえば、メルシアが初めに俺の研究の手伝いを申し出てくれた時に言っていたね」

「はい。豊かな自然の恵みのお陰で何とか生活はできていますが、食料事情は年々悪化しているようで」

メルシアが研究を手伝ってくれていたのは、俺の作り上げた作物を村に送るためだ。

そして、痩せた土地でも育つ作物は昨日完成した。

膨大なデータも集まり、土地に合わせた調整も時間をかければできると確信できるほど。

本当はそのことをガリウスやウェイス様にお伝えしようと思ったが、必要としていないものを渡しても無意味だろう。俺はとっくにいらないと言われたのだから。

「だったら、メルシアの故郷に行くよ。そこで俺たちが作り上げた作物を育てて、食生活を豊かにする。確実とは言えないけど、メルシアの故郷でなら帝国で出来なかったことができる気がするんだ」

品種改良したものをメルシアの故郷にも送る約束はしたが、やっぱりその土地のことは直接赴かないとわからないこともある。元から一度は行くつもりだったので問題ない。

覚悟を告げると、メルシアが目を輝かせる。

「ありがとうございます、イサギ様! しかし、本当によろしいのですか? イサギ様の実力と品種改良した作物があれば、どこの国でもご活躍できるかと思いますが……」

「自分で誘っておきながら言う?」

なおも俺のことを心配するメルシアを見て、思わずクスリと笑ってしまった。

「す、すみません。勢いで言ってしまいましたが、冷静にイサギ様のことを考えると無理にお誘いはできないと気づきまして」

「確かにそうかもしれないけど、また色々なしがらみに囚われるのは面倒だし、今度は自由にやってみたいんだ。それにメルシアには研究面だけじゃなく日常生活も支えてもらっていたから報いてくれたお礼も兼ねて力になりたい。それじゃダメかな?」

「ダメじゃありません。本当に嬉しいです」

理由を告げると、メルシアは涙目になりながら頷いた。

改めて振り返ると、随分と大胆なセリフを言ってしまった気がする。

なんだか気恥ずかくなってしまったので、空気を変えるように俺は言う。

「それじゃあ、準備を纏めて獣王国に向かうとするかな」

「はい! では、私も退職して荷物を纏めますので少々お待ちください」

「うん。それじゃあ、また後で」

「はい」

「――って、ちょっと待って!」

サラッとした会話だったので流しそうになったが、とんでもない方向に進もうとしている気がする。

「どうしましたか?」

「メルシアは仕事を辞めて付いてくるつもりなのか!?」

「当然です。故郷に戻ってイサギ様のお手伝いをしないといけませんから」

重大なことにもかかわらず、メルシアの態度はとてもあっさりとしたものだった。

てっきり俺だけが村に向かって生活するつもりだったが故に、メルシアの返答にはとても驚いた。

帝国内では獣人の地位は人間に比べると低い。

それでも帝城で働くメイドになれたのはメルシアが優秀だったからだ。

「城仕えのメイドというのは、エリート職で給金もかなり良いじゃないか!? 本当に辞めていいのかい?」

「イサギ様、先ほどの私と同じ心配をされていますよ?」

「あっ」

思わず心配すると、今度はメルシアがクスリと笑った。

さっき俺を心配していたメルシアも、まさしく今の俺と同じ気持ちだったのだろう。

だとしたら、俺がかけるべきものは過度な心配などではない。

「わかった。それじゃあ、メルシア一緒に行こう!」

「はい!」

覚悟を決めながら言うと、メルシアは嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。