二十四.魔女の書

「エドガー王子、直ぐに王宮にお戻りください。火急の事態です」
 店に飛び込んできた兵士は、王宮に魔物が現れた事を私達に告げた。
 エドガー王子は一刻も早く王宮に戻らなければならない為、ランスさんの案内で霊廟へ通じる扉を使うことになった。
 霊廟に入ると王子は私達に一旦そこで待つよう言い置いて、兵士と共に王宮へ向かった。
 ランスさんとロウは私とローレンシア様を守る為に霊廟に残っている。
 十数年ぶりに帰ってこられたというのに、王子とゆっくり話す間も無いローレンシア様がお気の毒だった。
 それでもローレンシア様は落ち着いた様子で、私達の為に自らお茶を用意してくださり、ランスさんからエドガー王子の話を聞いたりして、不安な様子を見せることも無かった。
 窓から外を伺えば、黒い雲が立ち込めている。やがて雨音が聞こえ始めた。
 私は窓際に立って外を眺めていたが、王宮の様子が気になってしまい落ち着かない。
 それを察したロウが、様子を見に行こうと立ち上がった。その時、降りしきる雨の中を一人の兵士が駆け込んで来るのが見えた。
「お逃げください!王宮内は既に壊滅状態です」
 皆が一斉に息を飲んだ。
 ランスさんが詳しく話すよう言っても、兵士はただ一刻も早くと伝令に出されただけのようで、まるで中の様子が分からなかった。
「仕方ありませんね。鏡を使いましょう」
 ランスさんはそう言うと、大きな深皿に水を湛えた物を持ってきた。
 呪文を唱えると、水面に見たい場所の景色が映し出される。ジェスリルもよく水鏡を使っていたので見慣れた魔法だった。
 覗き込めばそこにエドガー王子の姿が浮かび上がった。その目にはいつもの力強さが無く、だらりと下がった腕には血濡れた剣を握っている。王子の前に倒れている人影は、胸から血を流しており、生きているのかどうかそこからは判別出来なかった。
 足元に転がる王冠、玉座にはそこに座るべきはずの王ではない、別の誰かがいる。
 ローレンシア様が小さく悲鳴をあげた。
 倒れているのはアームスデン王だろうか。その状況だけを見れば、そんな筈はないが、王を刺したのはエドガー王子、というようにも見えてしまう。
 そして玉座にいるのは紛れも無い、ーーヴィルヘルムだった。
 酷薄な笑みを浮かべて、王と王子を見下ろしている。
 魔女の館で見た時よりも近寄りがたいような禍々しさを増しているように思えた。そして、まるで私達を手のひらで踊らせて楽しんでいるかのようだ。
 エドガー王子は水鏡の中で狂ったように剣を振り回したかと思うと、立ちすくみ、両手で剣を逆手に握り直した。
 振り上げた剣の鋒はエドガー王子自身に向けられていた。
 その手を振り下ろせば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
 ヴィルヘルムに操られているのかもしれない。私はそれ以上考える余裕は無く、ただエドガー王子を助けに行かなければ、と強く願った。私の中にある魔力は私の強い願いに呼応して力を発揮する。
 次の瞬間、目の前にエドガー王子がいた。
 驚きに目を見張る王子の顔が、直ぐ至近距離で私を見ていた。
 私は背中に衝撃を感じてよろめいた。痛みなのか熱なのか、体を突き抜けるようなそれが、剣により貫かれたものだと理解するのに、少し時間がかかった。
 エドガー王子の腕の中に転移した私は、王子が自身に向けて振り下ろした剣を、自分の身に受けたようだった。
 ほっとして力が抜けた。
 エドガー王子が呼びかける声が聞こえたが、答えることが出来ず目を閉じた。酷く寒かった。
 いつも誰かに守られてきた私は、こんな痛みを感じたことはなかった。でも恐ろしさは不思議と感じていなかった。
 帰りたい、魔女の館に……
 そんな願いが胸に去来する。
 まだ何も終わっていない。まだ帰れない。でも今は……
 最期の力で私はヴィルヘルムからエドガー王子と皆を守る方法を考えていた。
 ほんの一瞬だったか、或いは数時間だったのか、空から魔女の書が無数に舞い降りて来る幻を見ていた。何代もの魔女の歴史の中に、その方法がある。答えを探して流れこんでくる膨大な記憶の断片を見ていた。
 キラリと光るカケラから魔法陣が広がる。
 私の体から流れ出す血が、その魔法陣を染め上げていき、やがて王宮を包み込むほどの大きさになった。
 ヴィルヘルムを封印する為の魔法陣だ。
 私がネイドリルの優しさや良心から生まれた存在であるように、ヴィルヘルムは誰かの悪意から生まれた存在だった。
 ヴィルヘルムを消すことは出来ない。
 殺そうとする悪意こそがヴィルヘルムの存在そのものだからだ。
 歴代の魔女は封印によってその存在を閉じ込めてきた。
 数々の戦争、疫病、飢饉といったものをもたらすヴィルヘルムを魔力の続く限り抑え込む。それが私達魔女の役目だ。
 私の血の全てをかけてこの役目を終えなければならない。
 魔女の書がそう私に語りかける。
 白い輝きを放つ魔法陣の中で、私とヴィルヘルム、二人だけが立っていた。
「また私を閉じ込めるのか? 」
 ヴィルヘルムの声は怒りと諦め、悲しみ、孤独、そんな思いを伴って私の耳に届いた。
 これまでに何度となく封印されてきた事で、これからどうなるのか分かっているようだ。
「あなたのした事が大勢の人の悲しみや怒りを生んでいる。このままにしておけない」
「私とお前が一緒になればどうだ?私が悪さをしないようにお前が見張ればいい。
 もう、一人で閉じ込められるのは嫌だ」
「一緒になるってどういうこと?」
「二つの心を持つ一つの存在になるのさ。私たちの力を合わせれば何だって出来る。
 この世界を人間と魔物が共存出来るようにする事だって容易い。どうだ?」
「…… 」
「私をお前の中に入れてくれよ。一人で閉じ込められるよりは、お前の中にいる方がいい」
 魔法陣によってヴィルヘルムの力はどんどん吸い取られていく。
 その姿は次第に小さくなっていき、子どものようになった。
 ヴィルヘルムは赤い髪を振り乱しながら私に手を伸ばす。
「助けてくれ! 」
 魔女の書が見せた記憶に中には、同じように助けを求められる場面もあった。けれど、ヴィルヘルムは助けた魔女を食い破り、再び悪意の塊となって君臨する。
 受け入れた魔女の心の中にも、必ず悪意は存在する。そこにヴィルヘルムは付け入る。
 助けられるものなら助けたい。
 けれど、ここで私がヴィルヘルムに支配されてしまえば、その後に起きる惨劇は想像に難く無い。
「あなたの中にも他の感情が芽生えるといいのに…… 」
 私がヴィルヘルムを制することができないなら、ヴィルヘルム自身が変わるしかない。
 そうしている間にもヴィルヘルムは小さくなっていき、遂に小さな黒い珠となった。
 魔法陣は消え、空中に浮いていた私の体は落下していく。
 黒い珠も一緒に落ちていく。私はそれを手に掴んだ。
 せめてこれから先、私の生きる生をヴィルヘルムに見せてあげよう。美しく優しいものを、この黒い珠が虹色に輝くまで注ぎ続けよう。
 ゆっくりと落ちていた体が受け止められた。見上げればそこにロウの琥珀色の瞳がある。
 あぁ帰ってきた、そう思えた。
 私が帰りたい場所はロウのいる場所だった。
 辺りを見回せば、アームスデン王の傍らにはローレンシア様とエドガー王子がいる。二人の様子から王は助かったようだ。
 ランスさんも兵士達を治療して回っている。
 エドガー王子が私に気付き駆け寄ってきた。
「エリル…… 」
 エドガー王子は声を詰まらせた。その瞳に後悔や心配、自責の念といったような様々な感情が浮かび、どうしていいか分からないようだった。
「……良かった」
 体に力が入らず、言葉に出来たのはそれだけだった。それでもエドガー王子には伝わったようだ。王子の頬に涙が一筋流れた。
「……ありがとう」
 絞り出すような声で言って、私の手をとりそこに口付けを落とす。ローレンシア様も私に礼を執ってくださった。
「魔女の館に帰ろう」
 ロウの言葉に頷き、私はエドガー王子達に別れの挨拶をした。
 また魔女の館で平穏な暮らしを送ろう。
 一日一日を大切にしながら。


 エドガー王子から私への求婚の手紙と夜会への招待状が、薬屋に毎日のように届けられるようになった。
 ロウはすかさず破り捨てている。
 ジョシュも前にも増して頻繁に魔女の館を訪れている。
 毎日が賑やかだった。
 私とネイドリルは姉妹のように一緒に本を読んだり、チェルシーおばあちゃんに料理を習ったりしている。
 ジェスリルは旅に出た。
 今まで出来なかった事をするのだと、楽しげに魔女の館を後にした。
 ユリウスはチェルシーおばあちゃんに薬の作り方を習いながら、魔女の館で暮らしている。
 ランスさんはエドガー王子の補佐をしながら、新世界に逃れた人たちを人間界に戻す為に働いている。
 私の首にはヴィルヘルムを封印した黒い珠がペンダントとして下げられている。
 ヴィルヘルムはここから見ているだろう。この美しく輝く世界を。


<了>