二十二.魔王
ランスさんとネイドリルが部屋に入ってきた。ランスさんがジョシュの傷の具合を確かめ、ロウと二人でベッドに運ぶ。
血は止まっているようだった。けれど、顔面は蒼白で瞼はきつく閉じられたままだ。
ジョシュには血が必要だ。私のせいで怪我をした。私の血でジョシュが助かるなら……。私は急いでジェスリルの元に向かった。
「ジェスリル、ジョシュが…… 」
ジェスリルは分かっていると言う風に私の背を撫で、銀色の小箱を枕元から取り出した。
「今は私の血を与える方がいい。エリルの血は今のジョシュには強過ぎるだろう」
ジェスリルには私がジョシュに血を与えたがっている事がお見通しだったようだ。
「ユリウス、チェルシーを呼んでおくれ」
ジェスリルが言うと、ユリウスが静かに部屋を出て行き、すぐにチェルシーおばあちゃんと一緒に戻ってきた。
ジェスリルが銀の小箱をチェルシーおばあちゃんに渡すと、ユリウスに見ておくように言う。
チェルシーおばあちゃんは慣れた手つきで箱の中からガラスの瓶を取り出した。それをそっとジェスリルの首筋に当てて呪文を唱えると、ゆっくりとガラス瓶の中に赤い液体が満たされていった。
「覚えておきなさい。これは自分でやるのは良くない。チェルシーかユリウスにやって貰うんだよ。自分でやろうとすると、血の流れと魔力の流れが廻って止められなくなる事がある」
ジェスリルはぐったりと枕に体を沈めながらも、私にそう教えてくれた。
「さっき館が揺れたのは……? 」
気になっていた事を聞いてみると、悪意を持つ者は本来魔女の館には入れないように魔法がかけられているのだという。ところが、それより強い魔力を持った者が無理に侵入してきた為、館の魔力とぶつかって揺れが起きたのだろうということだった。
それは取りも直さず、ヴィルヘルムの魔力がジェスリルのそれを上回っているということだ。
ヴィルヘルムがローレンシアの姿で入ってきた時にも確かに館は揺れた。あの時気付くべきだったのだ。
ローレンシアを偽物と見抜く事ができず、魔女の館に導き入れ、ジョシュに大怪我を負わせた。ジェスリルにも余分な魔力を使わせてしまった。全て私の落ち度だった。
「ジェスリル、ありがとう。本当にごめんなさい」
ジェスリルの頬に口付け、チェルシーおばあちゃんとユリウスにもお礼を言った。
ユリウスは私にジェスリルの血の入ったガラス瓶を手渡してくれながら、胸を叩いて、ジェスリルのことは任せて、と笑顔を見せた。
ジョシュの元に戻り、無事を確認すると、ランスさんが不意に私に謝った。
「エリルさんを危険な目に合わせてしまいましたね。申し訳ありません」
「何故ランスさんが謝るんですか。ヴィルヘルムを引き入れてしまったのは私です。謝るのは私の方…… 」
俯く私の頭に、ぽんとロウの手が乗せられた。
「最初に浜辺で見た時、おかしいと思ってたんだ。ただ、何か知っていそうだったから、わざと引き入れたんだよ。
だから謝るのは俺たちの方だ」
「おかしいと思ってたって、何故?」
「エドガーの母というにはどう見ても若過ぎるし、逃げてきたと言う割には身なりが整い過ぎていた」
私は驚いてロウを見上げた。
確かにエドガー王子のお母様は十五年前に行方が分からなくなっていたのだ。その時王子は五歳だったはず。浜辺で見たローレンシア王妃は二十歳くらいに見えた。あの時感じた違和感はこれだったのだろう。
「早く教えてくれれば良かったのに」
ロウはすまないと言って私の髪を撫でた。
ネイドリルがそっと私の前に来て、ヴィルヘルムが置いていったペンダントを見せた。
楕円の水晶の中で、ローレンシア王妃と思われる小さな人影がこちらを見ていた。
そっと手を伸ばして触れてみる。
ーー帰りたい
そんな思いが伝わってきた。
エドガー王子に会わせてあげたい。そう思った瞬間、水晶が弾けた。キラキラと水晶のカケラが光を反射しながら舞い降りる中に、ゆっくりと姿を現したのは、先ほどまでは指の上に乗せられる程の大きさだったローレンシア王妃だった。
輝く蜂蜜色の長い髪に、エドガー王子によく似たグレーの瞳。
さっきロウが言った若過ぎる姿で、ローレンシア様はそこに立っていた。またヴィルヘルムが化けていないとも限らないが、伝わってきた帰りたいという思いは、本物のローレンシア様であることの証明のような気がした。けれど、何故歳をとっていないのだろう。
ロウはさっと私を背に庇うように立ち位置を変え、ランスさんはネイドリルを庇いながら、問いかけた。
「あなたは誰ですか?本物のローレンシア王妃なら、攫われた時のままの姿の筈がない」
ローレンシア王妃は悲しげな表情を見せ答えた。
「助けていただきありがとうございます。
私はアームスデン王の妻、ローレンシアです。
ヴィルヘルムは私が年老いる事を許さず、水晶の中に閉じ込め、時を止めていたのです」
言いながらもローレンシア様の様子が変わっていく。水晶から出たことによって、その身体が急速に時を追いかけ始めたようだった。
美しい顔に皺が薄っすらと浮き、髪のツヤがややくすんだように見えた。
ローレンシア様は急速な変化に眩暈を起こしたのか、額を押さえて体を傾がせた。ロウがそれを支え、長椅子に座らせる。
「十数年もの間閉じ込められていたのですか?そんな…… 」
ヴィルヘルムの恣意によってローレンシア様の人生は大きく狂わされてしまった。エドガー王子やアームスデン王もずっと苦しんできたに違いない。
ヴィルヘルムを許せないと思った。
躊躇いもせずにジョシュの首に剣を刺した光景が思い出されて、目の前が赤く染まった。
許せない。
「私に薬を渡したヴィランはヴィルヘルムよ」
ネイドリルが私を見つめて言った。
全ての災いの始まりがヴィルヘルムだったのだ。
体の奥から湧き上がる熱の奔流に飲み込まれそうになる。ヴィルヘルムに対する怒りの感情が、抑えきれない程の魔力を生んでいた。
足元から上昇する風に髪が舞う。真っ赤に染まる視界。
ーー許せない
一方で、これ以上進んではいけないと警鐘を鳴らす声が聞こえる。
怒りに任せて力を放出しようとする気持ちと、そうしてはいけないと抑える気持ちが葛藤する。
「エリル! 」
私の名前を呼んだのは、ロウ?
両の肩を掴まれ、揺さぶられる感覚に、少しずつ視界を取り戻すと、心配そうに見つめる琥珀色の瞳がそこにあった。
力を放出しかけていた私を現実に引き戻す。
見渡せばランスさんもネイドリルも心配そうに私を見ていた。
私はロウを見上げ、その琥珀色の瞳の中に何かを探し求めた。
私はどうすればいいのだろう。
私に何が出来るのだろう。
焦りと不安、怒りや苦しみ、様々な感情が混ざり合い、どうしていいか分からず喘いだ。
魔力はまだ思うように制御出来ず、このまま暴走していたら、ここにいる皆を傷付けていたかも知れず、恐怖が襲ってくる。
縋るように見上げる私を、ロウがその腕の中に強く抱きしめた。
「心配しなくていい。俺たちがいるから」
大丈夫、と何度も繰り返される声に、次第に熱が引いていく。
膝から力が抜け崩折れそうになった私を抱き上げ、ロウはランスさんに声をかけた。
「エリルを休ませてくる。
ユリウスに言って皆を休ませてくれ」
「ネイドリルはローレンシア様と話があるようなので、向かいの部屋をお借りしますよ。
ジョシュは私が見ていますから、エリルさんについていてあげてください」
ランスさんの声を聞くうちに私は眠りに落ちていった。自分で思う以上に体力を消耗していたらしかった。
目を覚ますと、部屋は薄っすらと明るく、椅子に座って腕を組み、目を閉じているロウの姿が見えた。
額に乱れて降りかかる焦げ茶の癖毛の下で、きつく寄せられた眉根が数瞬後にふっと緩み瞼が上がった。
「気がついたか?気分はどうだい?」
優しく問いかけてくれる声はいつもの優しいロウのものだった。
「大丈夫よ。ロウ、ありがとう。心配かけてごめんなさい」
何も言わなくても分かってくれているような気がした。
「ジェスリルが言っていたよ。
エリルにたくさんの感情が芽生えているから、混乱しているだろうと。
本来はゆっくり時間をかけて消化していくべきものだけど、ヴィルヘルムのこともあって急激に変化が起きたからね。魔力もまだ安定していないし、不安だろう」
私は正直に是と頷いた。
「エリルが一人で悩む必要はない。魔力のことも、ヴィルヘルムのことも、一緒に考えよう。
俺も、一人ではエリルを守りきれないってことが分かったよ。情けないけど、自分の力を過信し過ぎていたみたいだ。
あの時、ヴィルヘルムに連れ去られていたらと思うと…… 」
ロウは腕を伸ばして私を抱き寄せた。いつもは見せないロウの不安そうな表情に胸が締め付けられた。
私もあの時のことを思い出し体が震えた。もしヴィルヘルムに連れ去られていたら、もし窓から落ちていたら、もしロウやジョシュを失っていたら……
ロウにしがみつくようにして、その想像を振り払った。まだ大丈夫。皆ここにいる。
「今のままじゃ奴には勝てない。皆で考えるんだ。これ以上彼奴に好き勝手はさせない」
ロウの強い決意が伝わってきた。私も出来る限りの事をしよう、そう誓った。