二十一.囚われの王妃
「お助けくださいっ、どうか…… 」
魔女の館に帰ろうとしていたところに、駆け寄って来る人影があった。
淡い水色のシンプルなドレスを纏った女性だった。波打つ蜂蜜色の長い髪は夕陽を浴びて輝いている。とても美しい女性だった。
息を切らせて走ってきたかと思うと、ジョシュの前で足を縺れさせ、彼の方へ倒れ込んだ。
驚いた表情で女性を抱きとめたジョシュと、苦しげな表情で見つめ返す女性の姿が、夕焼けの海岸で一枚の絵のような美しさだった。
突然の出来事に皆が息を飲んで成り行きを見守っていると、ロウが私を背にして立ち、誰何した。
「何者だ? 」
女性はロウを振り返り、ジョシュの腕から身を起こすと、胸の前で手を組み合わせ、もう一度先ほどの言葉を繰り返した。
「お助けください。魔物に捕らえられていたところを逃げてきたのです。
どうか、王宮に連れて行って頂けませんか? 」
ランスさんが呆然としたように呟いた。
「……ローレンシア王妃」
私は目の前の女性をまじまじと見つめた。確かに髪と目の色はエドガー王子と同じだった。顔立ちも似ている。
それに魔物に捕らえられていたという点が、ローレンシア王妃の状況に似ている。
ランスさんを見れば、私の視線に気付いたのか、こちらを見て表情を緩めた。
「王宮でローレンシア王妃の肖像画を見たことがあります。
確かに王妃に似ています。ですが…… 」
何か気になることがあるのか、ランスさんは考えこむように顎に手を当てて、もう一度その女性に目を向けた。
「そうです。私はアームスデン王の妻、ローレンシアです」
女性はホッとしたように笑みを浮かべてそう言った。
ロウの背中はずっと私を守るように緊張している。
女性に対してこんなにも怖い雰囲気を纏ったままなのはどうしてだろう。いつものロウらしくないような気がして、そっと背中に手を伸ばせば、突然振り返って伸ばしかけた私の手首を掴み、引き寄せるようにして耳元に囁いた。
「何か嫌な感じがする。気を許すな」
ロウの真剣な目に見つめられ、私は言葉が出て来ず、ただその目を見つめ返した。ロウはローレンシア王妃に疑いを持っているようだ。何故だろう。
「とりあえず、ジェスリルのところに帰りましょう。いつまでもここに居るわけにもいかない」
溜息と共に発せられたランスさんの言葉に、ロウが反論する。
「素性の分からない者を連れて行くのか?」
ランスさんもそれには思うところがあるようだったけれど、置いて行くわけにもいかない。苦渋の選択だと返した。
「エリルはどう思う? 」
ジョシュが私に選べと言うように、皆を見回して言った。
私はもちろんローレンシア王妃をアームスデン王の元へ連れて行ってあげたい。その為には一緒に魔女の館を通って人間界へ行く他はない。
私はローレンシア王妃に向かって言った。
「アームスデン王とエドガー王子が待っています。一緒に王宮へ行きましょう」
ローレンシア王妃は嬉しそうに少女のような笑顔を見せた。その笑顔に少しだけ心に引っかかるものがあったが、それが何なのか、その時の私には分からなかった。
ロウだけが厳しい表情で王妃をじっと見ていた。
魔女の館に戻る扉を潜ると、時を同じくして隣の扉が開かれた。街の薬屋に通じている扉だ。
そこから現れた人物に、皆一様に息を飲んだ。
濃紺のフードを被った小柄な人影が、一瞬怯えたように後退り、踵を返しかけた。私は咄嗟にその手を掴んだ。
「待って!」
瞬間、ガタガタと家が揺れた。ほんの僅かな時間だったが、今までにこんな事は一度もなかった。
廊下に置いてある小さな台に乗った花瓶や、燭台が倒れていた。
驚きに目を見開いたネイドリルと目があった。何故急に魔女の館が揺れたのかも気にはなったが、今はネイドリルを捕まえておくことが優先だった。
「待って、話したいの」
私はネイドリルを離すまいと腕に力を込めた。
ネイドリルの目が私の後ろにいる人たちに向けられ、やがてある一点で驚きが恐怖に変わるのが分かった。
その手が小刻みに震えている。
私はネイドリルの視線を追って振り向いた。そこに居たのは、……ローレンシア王妃だった。
「何故、あなたがっ…… 」
私と同じ声がローレンシア王妃に向かって発せられる。
現王妃であるネイドリルにとって、亡くなったはずの前王妃が現れたとなれば、地位を追われかねない一大事だろう。でも、それだけではない、何かがあるような気がした。
「ネイドリル、私知りたいの。あなたに何があったのか。話をしたいの、お願い」
ネイドリルは私に視線を戻し、しばらく逡巡した後に小さく頷いた。
私はほっとして、そろりと掴んでいた手を放した。ネイドリルは逃げたりはせず、ローレンシア王妃を気にしながらも、付いてきてくれた。
ジェスリルはまだ起き上がることは出来ないようだったので、ユリウスに付いていてもらい、ローレンシア王妃にも別室で待っていて貰うことにした。それ以外は皆食堂に集まった。
皆の視線がネイドリルに注がれる中、ネイドリルは私を改めて見直し、私の中にあった魔力が解放されたことを悟ったようだった。その目には諦めの色が少なからず浮かんでいた。
「十数年前、魔界と人間界を隔てていた結界が一時的に緩んだ時があった。今思えば、お姉様も三百年という時を、その結界を守り続けてきたんですもの。とうに限界が来ていてもおかしくは無かった。
でも私はどうしても人間に、魔物狩りなんてもので罪の無い者達を無残に殺して来た王に復讐したかった。
心に渦巻く黒い感情につけ込むようにヴィランが現れた。ヴィランは自分が王になりたがっていたのよ。
私は王に近づこうとして王妃であるローレンシアと仲良くなってしまったの。その為に復讐を躊躇っていたら、ヴィランは私に薬を差し出した。これを飲めば迷いが無くなると。
その薬は私の中にあった穏やかな幸せな気持ちを吐き出させたの。綺麗だったわ。キラキラ輝いていた。私はそれをヴィランに壊されたくなくて、お姉様のいるこの館の近くに置いていった。それをお姉様が育ててくれたのよ」
ネイドリルは私を捨てたんじゃなくて、守ろうとしたんだ。ネイドリルの瞳に私を愛おしむ優しさがあった。
「でもいざ復讐をしようとすると、魔力まで失っていたの。私は魔力が回復するのを待った。
その間にヴィランは魔力の無い私に興味を失って姿を現さなくなった。
私がここへ来たのは、あなたと王が話しているのを聞いて、ローレンシアが魔物に連れ去られたと知ったから。ヴィランが連れ去ったに違いない、そう思って彼女を連れ戻しに行く為にここへ戻ったのよ」
ネイドリルの話を誰一人口を挟まず聞いていた。
私はネイドリルの魔力が回復するのと共に、その失くしたはずの優しさも再び彼女の中に育っているのを感じた。そうでなければ、ローレンシア王妃を探しに行こうとは考えなかっただろう。
私がそう言うと、ネイドリルは静かに涙を零した。
その震える肩をランスさんが抱き寄せ、しばらく二人だけにしてあげようと、私達は部屋を出た。
あとはランスさんが復讐を辞めさせてくれるだろう。
私は一人自分の部屋に戻った。ロウとジョシュは何やら二人で話があるらしく、私は皆が揃うまで部屋で休む事にした。
疲れていたのか、ベッドに横になるとすぐに眠ってしまった。
気がつくと部屋は真っ暗だった。
灯を点けようとベッドから降り、手探りでドアの方に進むと誰かがそこに立っていた。
暗闇に目を凝らせば、ぼんやりと長い髪が見えた。さらによく見ようとすると、魔力のせいか、暗闇でもよく見えるようになった。
そこにいたのはローレンシア王妃だった。
「ローレンシア様、すみません。早く王宮に帰りたいですよね。私眠ってしまって…… 」
なかなか部屋から出てこない私を呼びに来たのだろうと思ったが、ローレンシア王妃は何も言わない。
気分でも悪いのだろうかと一歩前に出たところで、ローレンシア王妃の手が私の首に伸ばされた。
抵抗する間も無く、首を絞められ壁に押し付けられた。
声も出せず、必死にその手を解こうともがいていると、私を呼ぶ声と共に銀狼姿のロウが飛び込んで来た。ローレンシア王妃に飛びかかると、王妃は私から手を放し、ひらりと身をかわして机の上に飛び乗った。とても王妃様とは思えない。
物音を聞きつけたのか、ジョシュも部屋に飛び込んできて、すぐさま私を抱き起こし、避難させてくれた。
私は咳込みながら部屋の隅でその光景を見ていた。
一体何が起こっているのだろう。
ロウが飛び掛るとローレンシア王妃はそれをかわして、ベッドや窓枠の上を飛び回る。
やがて、真っ暗だった部屋に月の光が差し込んできた。今まで雲に隠れていたのだろう。その光にローレンシア王妃の首元にあるペンダントが光を反射した。
私の目はそのペンダントの大きな楕円の水晶に引き寄せられた。水晶の中に何かが動いている。
よく見ようと意識を集中し、その水晶の中にもう一人のローレンシア王妃がいるのを見た。姿が映りこんでいるというわけでもなく、水晶の中で壁を叩くようにその手が動いている。何か叫んでいるようにも見える。
水晶から、飛び回るローレンシア王妃に目を戻すと、そこに居たのは王妃とは似ても似つかない、尖った耳を持つ黒服の男だった。
光沢のある黒いベストに、一見黒に見える真紅のシャツ、長い髪を後ろで一つに結わえているが、その髪の色もよく見れば赤だった。
窓枠に斜に腰掛け、長い足をぶらつかせながら面白そうにこちらを見ている。
「何者だ? 」
ロウが問うと、男は嬉しそうにパチンと指を鳴らして立ち上がる。
「私は魔界の王ヴィルヘルム様だ」
「何故ここにいる? 」
重ねて発せられた問いに、ヴィルヘルムと名乗った男はやれやれといったように左右に首を振った。
「お前達がここへ招いたのではないか。もう忘れたのか? 」
ランスさんとネイドリルが戸口に立っていた。が、ヴィルヘルムが魔法を使っているのか、部屋に入って来ようとして入れずにいるようだった。
ヴィルヘルムはロウとの間合いを取りつつも、部屋の中を行ったり来たりしている。
そうしてロウの方に近づくと、私を見ながら大袈裟な身振りでロウに囁く。
「稀代の魔女ジェスリルが手塩にかけて育てた至高の宝玉、垂涎の的だ。あんたも本当は欲しくて堪らないんだろう?」
ロウは何も言わずじっと男を見据えている。
男は面白くなさそうに、今度はジョシュの方へ近づき同じように囁く。
「あの娘が欲しいって顔に書いてあるぜ」
ジョシュも挑発に乗るような事はなく、厳しい目で男を見ていた。
男は次に私を見て笑った。
ぞっとするような獲物を狙う目だ。
「かわいいお嬢さん、あんたにゃその力は大き過ぎる。私と手を組まないか?共に世界を支配しようじゃないか」
何処からどう見ても怪しいことこの上ない。
私はプルプルと首を左右に振る。誰もヴィルヘルムの言葉に耳を貸さないと知ると、残念そうに肩を落とした。かと思えば、また赤い両眼をギラつかせてニヤリと嗤う。
「こいつを助けたいんじゃないのか? 」
そう言って手にペンダントをぶら下げて見せた。ペンダントがゆらゆらと左右に揺れる。その水晶の中にはローレンシア王妃の姿が相変わらず映っていた。もしかしてあの水晶に閉じ込められているのだろうか。
「俺と来るんだ。さぁ、いい子だ。ローレンシアを助けたいんだろう?」
男の声がしきりに私を揺さぶり、私は水晶から目が離せなくなっていた。次第に何も考えられなくなっていく。
体が勝手に動いて、男の方へと足を踏み出した。
「エリル、惑わされるな! 」
ロウが叫んで、私の方に駆け寄ろうとして何かに弾き飛ばされた。
ロウの体は壁に打ち付けられ、床に落ちた。何度か立ち上がってはヴィルヘルムに飛びかかろうとして、同じように弾かれる。
ジョシュも同じようにヴィルヘルムに向かって行っては弾き返されて床に転がった。
二人を助けなきゃと思うのに体が思うように動かない。
その間にヴィルヘルムは窓を開け放ち、私を抱えて外に飛び出そうとした。
その時再び魔女の館がガタガタと揺れ始めた。ジェスリルの魔法が弱くなっているのか、それとも他の理由なのか、先ほどよりも長く大きく揺れている。
ヴィルヘルムも立っていられず、私を抱えたまま開け放たれた窓の方に倒れた。
一瞬の後に、私の体は窓の外に放り出された。
ジョシュの伸ばしてくれた手が、辛うじて私の腕を掴み、私は二階の窓からぶら下がった状態になった。
建物の揺れが収まると、ジョシュが私を引き上げようと腕に力を入れた。その時、ヴィルヘルムがジョシュの背中に足を掛け抑えつけた。
ヴィルヘルムはその状態で私を見下ろしている。
「残念だがあんたは一緒には行けない」
ジョシュに言ったのか、私の腕を掴んで支えていたジョシュの顔色が変わる。
私は二階の窓からぶら下がった状態で二人を見上げるしかできなかった。
こんな時こそ魔法の力でなんとかしたいのに、どうすればいいのか分からない。
ヴィルヘルムがキラリと光る物を取り出した。細身の小さな刃物だ。ペロリとその刀身に舌を這わせ、にやりと口許に笑みを浮かべたかと思えば、躊躇いもせずに、その刃をジョシュの首筋に突き立てた。
私は声にならない叫びを上げた。
流れ出した血が私の腕にも伝い落ちる。
それでもジョシュは腕を離そうとせずにいる。ロウが男に飛びかかったようだが、男はひらりと外の木に飛び移った。
「ジョシュ、ジョシュ! もういいよ放して。早く手当しないとジョシュが…… 」
「エリル、心配要らないよ。今、助けるからね」
ジョシュが力を込めて私を引き上げる。ロウも手を伸ばして私を引き上げてくれた。
そのまま床に倒れ込んだジョシュの顔は蒼白で、床にドクドクと血を流し続けている。
ロウが素早くジョシュの襟に巻かれていたタイを抜き取り、傷口に巻き直す。
「エリル窓から離れろ! 」
私は震える足を必死に動かして窓から距離をとった。
何でもいいからジョシュを助ける魔法をと祈る。
それと同時にヴィルヘルムに対して沸き起こる怒りに身を任せ、窓の外に向かって込み上げてくる熱を放った。
目の前が白く染まり、暫くすると闇の中にぼんやりと光るヴィルヘルムの姿が浮かび上がった。
ヴィルヘルムには魔力の攻撃は効かない。逆に魔力を吸収してしまう、その事を知ったのは全てが終わった後のことだった。
「今日はお嬢さんの代わりにこの魔力をいただいておくよ。
お礼に私からのプレゼントだ」
ヴィルヘルムは笑い声を響かせながら消えた。後には水晶のペンダントが残されていた。