二十.記憶

 私の魔力を解放する為、私とランスさん、ロウとジョシュの四人で海辺に続く扉をくぐった。
 石の壁に囲まれた小さな砂浜に立つと、潮の香りが押し寄せ、波音に包まれる。
 今までの事が夢の中の出来事だったように現実感が薄れ、何かを忘れてきたような気分になった。
 下ろした髪を風が靡かせ、足元の砂を波がさらっていくのをひとつひとつ感じながら少し歩いた。
 しばらく海を眺めていたが、ランスさんが崖に近い場所に持ってきた敷物を広げ、私にその上に横になるように言った。
 私の足の方にロウとジョシュが少し離れて立ち、ランスさんは私の頭の方に膝立ちになっている。
 ついに、私の中にあるという魔力を解放する時がきたのだ。
 自分がどんな風になるのか、その力を受け止められるのか、考えると不安になるので出来るだけ考えないようにした。
 ランスさんに任せよう。
「目を閉じて、私の魔力を感じてみてください」
 私は言われた通り目を閉じ、意識を集中させた。
 額に暖かな光を感じた。
「次は記憶を辿ってみましょう。幼い頃のあなたを思い出してみて」
 落ち葉を踏む音、冷たい秋風と、暖かな木漏れ日。
 私を抱いて歩いているのはロウだ。
 私はロウの片腕にすっぽり収まるような、まだ小さな赤ちゃんだった。
 キラキラした光に、茶色い癖毛が時折揺れるのを飽きずに見ていた。
 それが私の思い出せる一番古い記憶だった。
 それ以前に自分がどこで、何をしていたのかは思い出せなかった。
「では、私の記憶を少しお見せしましょう」
 ランスさんがそう言って暫くすると、目を閉じているのにここではない景色が見えた。
 驚いて目を開けると青い空に重なるように、どこかの街の景色がやはり見えている。
「もう一度目を閉じて」
 ランスさんの穏やかな声に目を閉じる。
 街の景色の中に人々の姿が浮かび上がり始めた。
 隣に立っているのは、……ランスさんから見たネイドリルだ。
 ネイドリルは笑顔を見せていた。
 私の心の中にも、その笑顔のように暖かな喜びが浮かんできた。
 何だろう、と考えていると、むくむくと湧き上がってくる熱を感じる。その熱は体の中心から手足の方へ広がっていこうとしている。
『ランス、絵が完成したら一緒に…… 』
 ネイドリルがランスさんに向けて言った言葉が終わらないうちに、熱は私の体の外まで溢れ出していこうとするように、体のあちこちで渦巻き、全身に痛みをもたらし始めた。
 あまりの熱さに無意識に水を求める。
 すぐ目の前にある海に飛び込みたいような気持ちでそちらを見ると、波のうねりが変化し始めた。規則的に寄せては引くを繰り返していた波が渦を巻き始めた。その間も体は熱さに痛みを訴え、やがて目の前が真っ赤に染まり、何も見えなくなった。
 痛みを堪えていると、冷たい水が優しく体を包む感触があった。
 痛みが徐々に引いて行く。
 息をしているのかどうかさえ分からない。ふわふわと浮いているようだった。
 ネイドリルはランスさんと何か約束をしようとしていた。優しく暖かな、希望に溢れた気持ちで、未来を見ていた。
 なぜ捨ててしまったのだろう。
 なぜ捨てなければならなかったのだろう。
 私の中にあったのは優しさだろうか。それともネイドリルの悲しみの涙だったのだろうか。
 そんなことを思いながら意識を手放した。
 心地よい微睡みの中から、再び意識が引き戻され、目を開くと景色が歪んでいた。
 目の前を水の壁が覆っているらしく、手を伸ばせば水の壁に手が吸い込まれる。
 前も後ろも、右も左も全てが同じだった。水の部屋に閉じ込められている。
 ロウたちの姿を探そうとしても、水の壁はゆらゆらと揺らめいていて、外がはっきりと見えない。
 どうやってここから出ればいいのか分からず、暫くじっとしていたが、思い切って水の壁の中を通り抜けられないかやってみることにした。
 息を吸い込み腰の辺りまで前に進んでみたが、外には出られそうになかった。苦しくなって元の場所に戻る。場所を変えて何度もやってみたがだめだった。
 皆が心配しているに違いない。
 私の魔力はどうなったのだろう。解放できたのか、実感がない。試す方法も分からなかった。
 何も出来ない自分が情け無くて涙が込み上げた。
「ロウ、ジョシュ、ランスさん」
 名前を呼んでみても返事はない。
「ジェスリル…… 」
 魔法を自在に操る、美しく気高い魔女の名を呼んでみても答える応えは無い。
 涙が頬を滑り落ちた。
 下も同じように水の揺らめきがあるだけなのに、自分の体が沈んでいないことを不思議に思いながら、その涙が揺らめきの中に吸い込まれて行くのを見ていた。
 ひどくゆっくりと、時間の流れが急に遅くなったみたいに、涙の雫は静かに落ちて行く。
「……! 」
 水が弾けた。
 一気に水の世界から投げ出され、私の体は宙にふわりと舞い、弾けた水が細かな霧雨となって降り注いでいる。
 明るい光がキラキラと反射して無数の虹を描いた。
 まるで噴水の中にいるようだった。
 あるいはそれ以上に幻想的で、眩しい光景に見とれていると、下の方から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 私の体はゆっくりと地面に向かって落ちていた。
 背中や膝の裏に暖かい熱を感じ、つい最近もこんな風に抱きとめられた事を思い出す。見上げればそこには思った通り、大好きな焦げ茶の癖毛と琥珀色の瞳があった。
 ロウの目がどれ程心配をかけたかを物語っている。
「……私が受け止めようと構えていたのに」
 そんなジョシュの声も聞こえてきた。
「無事なようですね」
 ランスさんの穏やかな声もする。
「エリル、どこも痛くないか? 」
 ロウに問われてコクリと頷いた。
 皆が無事なことにほっと息を吐いた。
 砂浜の上に降り立つと、さっきまでのふわふわと浮いているような感覚との違いに足が重く感じる。
 皆、降り注ぎ続けている霧雨に濡れ、ロウは呆れたように空を見上げ、濡れた髪をかきあげた。
 また助けられた。
 いつになったら私が助けることが出来るんだろう。
 せめて今、ジェスリルのように魔法で皆を乾かしてあげられたら良いのに。
 そう思った瞬間、暖かな風が吹いた。
 いつの間にか霧雨は降り止み、服や髪も乾いている。
 不思議に思っていると、ロウが少し寂しそうな、複雑な笑みを浮かべながら私の髪を撫でた。
「魔力の解放に成功したようだな」
 体の中に溢れた熱が魔力だということは分かったが、解放出来たという実感が無いままだった私は、首を傾げた。
 説明を求めてランスさんを振り返ると、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「先ほどの水球の爆発も、一瞬で私達を乾かした風も、エリルさんの魔法ですよ」
 ジョシュも私を抱きしめながら続ける。
「エリルは素晴らしい魔女だよ。ジェスリルにも負けないくらい強い魔力だ。頑張ったね」
 自分の手の平を見てみるが、もちろん何も変わっていない。
 ただいつもより鮮明に、周りの景色が見えるような気がした。風の音や波の音も一つ一つはっきりと聞こえる気がする。
 感覚が研ぎ澄まされたように、世界が瑞々しい光を放って見える。
 これが魔女の視界なのだろうか。ジェスリルの見ている世界は、こんなにも輝いていて美しいのだろうか。
 呆然と立ち竦む私の耳には、今は姿の見えない魔女たちの、はるか昔に交わした囁きさえ聞こえるようだった。