十五.救世の女神
まずは休んで体調を整えましょう、と言ってランスさんは部屋を出て行った。
昨夜の夜会でネイドリル王妃を見て気を失い、気がつけば牢の中にいて、今は王宮の中の一室にある豪華なベッドの上だ。
たった一日の間に驚く程の急展開で、頭がついていかない。
少し時間の余裕が出来たことは幸いだった。
魔女の書を取り返す事はもちろん、私はネイドリル王妃と話がしたかった。
ジェスリルは何も言わなかったが、二人の間には何かわだかまりがあるような気がする。
魔女はこの世にもう二人しかいないと言っていたのに、ジェスリルはネイドリルに会いたくないのかな。
ネイドリルはどうして魔女の書を持って行ったのだろう。
ここにいればネイドリルに話を聞くことが出来るだろうか。
考えこんでいると、ロウが側に来て私の顔を覗き込んだ。
「あんまり考え込むな」
ロウは心配性だから、私が危険な事をしようとする時は何時も最初は反対する。でも最後は必ず私のやりたいようにやらせてくれるのだ。
そうやってずっとギリギリのところまで見守ってくれている。
だから私は安心して進んでいける。
いつもと違って狼の姿のままなのが少し淋しいような気がして、つい言葉が溢れた。
「人間の姿になれないんだね」
ロウは前足の上に顎を乗せるようにして目を閉じた。しばらく待ってみても返事は無かった。
それが二人の踏み越えられない一線のような気がして、ロウの優しい笑顔が胸の中で滲んでいった。
次の日になって、ランスさんが部屋にやって来た。
「ずっと部屋の中にいるのも窮屈でしょう?
絵を見に行きませんか? 」
そう言って連れて行かれたのは、お城を出て小高い丘を登った所にある、石造りの小さな建物だった。
ランスさんと私、そしてロウの三人で入口の前まで辿り着くと、そこにはエドガー王子がいた。
「やっと来たな」
腕組みをして石戸にもたれるように立っていたエドガー王子は、私達を待ち構えていたようで、ランスさんも驚いていた。
「そいつは誰だ? 」
私の斜め後ろに立っていたロウの姿にエドガー王子は訝しげに問う。
ロウは今日は何故か人間の姿に戻っていて、この姿をエドガー王子が見るのは初めてだったので、分からないのも無理はない。
ふと見上げると、不敵に微笑むロウの端正な横顔があった。
「エリルの保護者だ。
今後、無暗にエリルに近付くのは遠慮願いたい」
そう言って私の肩を引き寄せた。
たちまちエドガー王子の顔が不機嫌そうに歪む。
「ランス、部外者が紛れ込んだようだが、城の警備はどうなっている?」
目はロウに据えられているのに、言葉はランスさんに向けられる。
「誰かさんに牢に繋がれたりして、エリルさんも一人では心細いでしょうから、私が呼んだんですよ。バークレイ伯爵はお忙しそうですし」
ランスさんはさすがに王子の追求に怯むこともなく、受け流している。
二人の険悪なムードにハラハラする私を他所に、エドガー王子がツカツカと歩み寄り、私の手をとった。
「行こう、エリル。
この中に見せたい絵がある」
エドガー王子はロウを無視して私の手を引き、石戸を開けて中へ入っていく。
私はその手を振りほどく事も出来ず、導かれるままに暗い石室へと踏み込んだ。
後ろからロウの溜め息が聞こえた気がした。
冷んやりとした暗い石室に、ランスさんの灯したロウソクの灯りが順に伸びていき、通路を照らした。
奥には思ったよりも広い部屋があり、正面には祭壇の様なものがあった。
高い吹き抜けになった部屋には、上方のステンドグラスの窓から淡い光が差し込んでいる。
祭壇の向こう側に飾られた大きな絵が、否応無く目に飛び込んできた。
私は息を飲んだ。
その絵に描かれた光景は見慣れたものだったのに、それがここにあるということが、背筋を撼わす程の衝撃を私に与えたのだ。
ジェスリル、だった。
中央に立つ赤いドレス姿は、今よりほんの少し若い頃のものに思われた。
腕に黒猫を抱いている。その目は澄んだブルーでユリウスにそっくりだ。
そして右側には銀狼が、魔女を守る様に斜に構えて立っている。
夕焼けの情景か、ジェスリルの後ろに広がる空は真っ赤に染まっており、黒い羽を広げた蝙蝠が、今にもジェスリルの肩に舞い降りようとしていた。
しばらく呆然とそれを眺めていた私は気付いた。
絵の中のジェスリルはネイドリルにも似ていた。二人が姉妹であることが、この時すとんと胸に落ちた。
「救世の女神図だよ」
ランスさんが言った。
ここでは、ジェスリルは救世の女神として伝えられているのだ。
魔女の館の主人は魔族を人間達から守っている。裏返せば、人間の世界を魔族から守った救世主になるのだろう。
私は何故か溢れる涙を堪え切れなかった。
絵の中のジェスリルは淋しい表情をしていた。これが彼女の望む姿ではなかったに違いない。
そして人間の世界で生きるジョシュの顔も浮かんでくる。
世界は分かたれるべきだったのだろうか。
共存の道は無かったのだろうか。
ジェスリルはきっとこの時、辛い決断をしたに違いない。
「この絵は私の先祖が描いたものなんですよ」
ランスさんの穏やかな声に意識が引き戻された。
ランスさんのご先祖様は、ジェスリルの気持ちを分かっていたのだろうと思えた。
「似ているでしょう?エリルさんに」
ランスさんの言葉に一瞬驚いた。
これはジェスリルだ。私ではない。私は自分がジェスリルに似ていると思った事は、これまで一度も無かった。
けれど、ネイドリルに似ていると思ったなら、それは自分に似ているというのと同じことだ。
大きな見えない力に引き摺られているような錯覚に足元がふらつく。
私は誰なのだろう。
どこから生まれてきたのだろう。
今ここでこの絵に導かれたのは、何の為なのだろう。
「エリル、私のもとに帰ってきなさい」
鈴の音のように凛と石室に響き渡る声に振り返れば、そこには魔女の書を手にしたネイドリルが立っていた。