十四.魔法使い

部屋に誰かが入ってくる気配にロウはピクリと耳を立てた。
 ランスと呼ばれていた眼鏡の男だ。
 ロウは立ち上がり、エリルと近づいてくるランスの間に回り込んだ。
 ランスはロウに微笑みかけ、眠っているエリルの側に寄った。
 ロウはじっとその動きに注視している。
 ランスはエリルの額に手を当て、熱を見ているようだ。
 身を屈め、顔を横に向けると、エリルの口元に耳を近付けて呼吸を聞いている。
 エドガーの補佐でありながら、医学の心得もあるらしい。
 言葉が分かるとは思っていないだろうのに、ランスはロウに話しかけてきた。
「少し熱がありますが心配はいらないでしょう。
 エドガーはすっかりこの子に魅了されてしまっているようだから、悪いようにはしませんよ」
 肩の上で結んだ銀髪がさらりと胸に落ち、眼鏡の奥の瞳が細められた。
 一見穏やかそうに見えるが、何を考えているか読めない分、エドガーより厄介な人物と思われた。
「王が救世の女神が実はこの子だと知ったら、親子で争うことになるかも知れませんね。
 早くここから出た方がいい。
 エドガーを上手く味方につけられるよう協力しますよ」
 さらりと告げられた言葉に、ロウはランスを見据えた。エリルが救世の女神?どういうことかと問い詰めたいのに、狼の姿で言葉を発すれば、人狼である事が分かってしまう。それはエリルを危険に晒すことに他ならない。
 唸り声だけが漏れる。
 ランスは面白そうにロウを見ていたが、やがて何度か頷き、パチンと指を鳴らした。
 ロウは人間の姿に戻り始めた。
 予期せぬ出来事に、ロウは慌ててベッドの後ろに飛び込んだ。
「人狼だということは分かっていますよ。
 他の者に言ったりはしません。私も同じようなモノですから」
「魔法使いか?」
 ロウは隠れようとした事を諦めて立ち上がる。
 ランスはベッドに浅く腰掛け、ロウの変身を面白そうに見守っていた。
 ランスがただの人間でないことを確信したロウの問いに、曖昧に答える。
「……そう、そのようなものです。
 私は君たちの味方ですよ」
「救世の女神とはなんだ?」
「伝説をご存知でしょう?
 三百年程前に世界を救った救世の女神は、再び現れると。
 王はネイドリルが救世の女神だと思っているようですが、私の見た限りではネイドリルではない。
 エリルこそが救世の女神でしょう。もっとも大差はないかも知れませんね」
「詳しく話せ」
「今は時間がありません」
「なら今すぐエリルを連れて帰る」
「そうするべきでしょう。
 ただ、一つ頼みたいことがあります。
 君たちにとっても重要な事ですよ」
 ランスの目は真剣だった。
 信用してもいいのか、ロウは慎重にその瞳の奥を探りながらも、近づいて来る足音に気付いていた。面倒ごとにこれ以上関わっている暇はない。
「断る。エリルを巻き込むな」
「王子が来たようですね。話はまた後で」
 言い終わるや否や、ロウは再び狼の姿に戻されており、ランスは姿を消していた。
 部屋に入ってきたエドガーは、静かにベッドの側まで歩み寄った。
 ロウはエドガーをそれ以上近付けまいと、間に割り入る。
 エドガーはロウを避けて、ベッドに横たわるエリルを見下ろし、顔にかかった髪をそっと払い、その頬を撫でた。
 愛しい恋人にでもするような仕草に、ロウはエドガーを追い払おうと唸り声を上げるが、エドガーは一向に気にする気配が無い。
 ロウはその腕に牙を立てようと飛びかかった。
 勢いに負けてエドガーは床に倒れ込む。
 その音でエリルが目を覚まし、「やめて」と掠れる声で訴えた。
 エドガーにのしかかっていたロウはさっと飛び降り、何食わぬ顔でベッドの横に座り込む。
「躾がなってないようだな」
 エドガーは立ち上がり、ロウに向かって拳を上げる。振りだけのつもりだったが、エリルがその腕に取りすがって、止めようとするのを見て気が削がれた。
「冗談だ」
 反対の手でエリルの髪を撫でると、安心したのかそろりと腕を解いた。
 狼にさえ少女は優しい目を向ける。エドガーは自分にもその目を向けて欲しいと思っていることに気付き、自嘲の笑みを浮かべた。
「ネイドリルと同じ顔をしているのに、全く違うな」
 エリルは熱のせいか頬は火照り、目は潤んでいる。エドガーはその瞳から逃れるように目を逸らした。見つめ返せば引き込まれる。
「あの、王子様、ネイドリル……王妃様はどのような方ですか?」
 エドガーはエリルに問われたことに驚きつつ、答えを探すが、言えることはほとんど無かった。
 ネイドリルと交わした言葉など数えるほどで、無表情以外の顔を見たこともない。
 最初こそ、家族として接しようと思っていたエドガーだが、すぐに諦めた。ネイドリルは自分に関心が無い。エドガーもネイドリルにそれ以上の関心は持てなかった。
 広い王城では、意図せず顔を合わすことはそうそう無い。
「本当にネイドリルと何の関係も無いのか?」
 逆に問い返す。
「王妃様に会わせてください。そうすれば分かると思います」
 エリルの熱を帯びた視線がエドガーをじっと見ている。
 その目に抗える筈もなかった。






 エドガー王子が部屋を出て行って暫くすると、
「エリル、ここを出てジェスリルの所に帰ろう」
 ロウが狼の姿のままで言った。
 私は首を振って、ベッドの淵に置かれたロウの前足に手を重ねた。

「まだ魔女の書を取り返せてないよ。
 それにネイドリルの言ったことが気になるの。
 確かめなきゃ」
 ネイドリルは言ったのだ。もともと私が彼女の一部で、元の場所に帰るべくしてここまで来た、ジェスもそのつもりでわたしをここへ送ったと。
「危険過ぎる!
 魔女の書は俺がどうにかする。とにかく帰ろう」
 ロウが心配してくれるのは痛い程分かる。現に、あっさりとエドガー王子に捕まってしまった。皆を危険に晒しているのも確かだ。
 でもここまで来て、何もせず帰りたくない。
「ロウ、お願い!
 このまま帰りたくないよ」
 ロウは暫くじっと私を見ていたが、やがて諦めたように吐息を吐いた。
「ジョシュとユリウスは先にジェスリルの所に向かった。二人が帰ってくるまでは大人しくしていてくれ」
 私はほっとして頷いた。
 熱が上ったのかくらりと目眩がした。
 ロウがベッドの上に飛び乗り、布団を咥えて引上げ、私に横になるようにクイッと顎を動かす。
 私は大人しく横になった。
 ロウの首筋を撫でてお礼を言うと、ロウはベッドを降りて、床に座った。
 自分のベッドならお布団に入れてあげたいが、この高級そうなベッドに狼姿のロウを入れても大丈夫かな。
 人間の姿だとそれはそれで問題だろう。
 私は逡巡した後、ベッドを降りてロウの横に座った。
 寄り添っていれば暖かい。
 ロウは驚いて身動いだが、諦めて私を包むように丸くなった。
 暖かなその毛に包まれて、私は暫く眠った。
 気がつけば、ランスさんが私を抱き上げて、ベッドに戻すところだった。
 目を開けた私に、苦笑を向けて言う。
「ちゃんとベッドで寝てください。
 私がエドガー王子に叱られますから」
 ランスさんは左耳の下で銀の髪を結わえていて、丸い眼鏡を掛けている。右耳には繊細な鎖と小さな紅い石の連なった耳飾りを着けていた。
 物腰は柔らかで、白い長衣がよく似合っている。
「ランスさん、ありがとうございます。エドガー王子の疑いが解けたのもランスさんのおかげですよね。ありがとうございました」
 ランスさんは私の背にクッションを当て、楽に座らせてくれながら、可笑しそうに笑っている。
「いえいえ、王子はあなたに魅かれているんですよ。ネイドリル王妃と違って、あなたは…… 」
 一瞬言葉を探すように言い澱み、続けた。
「可愛らしいですからね」
 もっと別の事を言いたかったのではないかと思ったが、ランスさんの目は楽しそうに笑っているだけだ。特に深い意味は無いのかもしれない。
 私は気になって聞いてみた。
「エドガー王子と王妃様は仲が悪いのですか?」
 ランスさんは眼鏡の奥の瞳を翳らせた。
「ネイドリル様が王宮に入られてまだ一月足らずですからね。それほど親しいわけではありません。
 王子は歩み寄ろうとなされたようですが、王妃様は拒んでおられる、といったところでしょうか。
 自分より年上の息子というのも、ね」
 二人の関係はまだ始まったばかりなのだろう。いきなり親しくなれと言われても無理に違いない。仲良くなれればいいのに、とぼんやり考えていると、ランスさんは驚くような言葉を繋げた。
「王を憎んでいるのが分かった上に、怪しげな書物を持って彷徨く女性を、信じろと言われても…… 」
 王を憎んでいる?
 怪しげな書物とは魔女の書の事に違いない。
「王様を憎んでいるって、ご結婚されたばかりなのに、そんなことっ」
「今、エリルに聞かせる話か? 」
 鋭く声を放ったのはロウだった。
 今まで狼の振りをしていたと思ったのに、ランスさんもそれに驚いた様子も無い。
「知っておくべきでしょう?
 この城にいて、自分の置かれた立場について何も知らない事ほど危険な事はありませんよ」
 私も知りたい。その為にここに来て留まっているのだ。
「その書物を返して欲しくてここに来たんです。ランスさん、お願いします。教えてください。ネイドリル王妃の事を」
 ランスさんはにっこり笑って頷いた。
「私のお願いも聞いていただけるなら喜んで」