一.魔女と私
私と養い親であるジェスリルが住む家は、古くて新しい、小さくて広い不思議な館である。何故ならジェスリルは魔女だから。
彼女の年齢は三百歳を優に超えている。にもかかわらず、艶のある黒髪は膝のあたりまで伸びゆるく波打っている。 何でも見通す神秘の瞳は見るたびに様々な色に変わり、聡明で落ち着いた声音は誰もを虜にしてしまう。
私の拙い言葉では到底言い表すことなど出来ないが、ジェスリル以上に美しい存在などこの世には存在しないと思う。
私たちはある時は森の中に、ある時は街の中に、またある時は崖の上に住んでいる。館の地下にさまざまな場所へ通じる扉があり、ある扉は街の薬屋の奥に、ある扉は山小屋に、ある扉は崖の下の洞穴にといった具合に扉ひとつで私たちは自由に出入りできる。
十数年の間、私たちはこの館で穏やかな暮らしを楽しんでいた。
訪れる客は吸血鬼、人狼、妖精。人間は勿論、動物たちも皆、美しいジェスリルに逢うため、また、困り事の相談など、ジェスリルを頼りにして訪れる。不思議な魔女の館。そこに住むのは魔女ジェスリルと人間の私の二人だけ。
今日、私はジェスリルから一冊の素敵な本を貰った。真新しい皮の装丁。表紙にはエリルと私の名が刻印されている。
中身はまだ無い。ジェスリルはこれから起こる出来事を綴っていきなさいと言う。
これから起こる様々な事を、この本に書いていく。つまりは日記帳なのだけれど、ここは魔女の館。これは魔女の書といってもいいかもしれない。
なんて、本来の魔女の書はちゃんと別にある。館の一部屋を埋め尽くす革の装丁の数千冊の本たちが、代々の魔女の生涯を自動的に記録しているのだ。私は魔女ではないから、その部屋の本にわたしの生涯が記録されることはない。その時はそう思っていた。
その日は朝から雨だった。
晴れの日も、曇りの日も好きだが、私は雨の日が一番好きだ。それも今日のように、風の無い日にしとしとと降り続ける雨に、家ごとすっぽり包まれているような日がいい。
ベッドにいくつもクッションを重ねて、美味しいお菓子とあったかい紅茶を用意する。あとは数冊の本を持ち込めば、今日一日はベッドの上で過ごせる。
ジェスリルも書斎で本を読んでいるはずだ。
私はしばらく物語の世界に飛び込む、つもりだったが、先程から聴こえてくる鳴き声が気になって本に集中できない。
仕方なく、鳴き声の主を探す事にした。
窓を押し開き、身を乗り出す。まっすぐ前方から声は聞こえてくる。私の部屋は外から見れば二階の部分にある。目の前には立派な楓の木が枝を伸ばしている。
その木の枝にしがみついている黒い仔猫を見つけた。仔猫も此方に気付いて、ミュゥと助けを求めるように鳴き声を上げる。
枝を伝えば私の部屋まで来られそうだ。おいでおいでと呼んでみるが、高さにすくんでいるのか震えるばかり動こうとはしない。
こちらから助けに行くしかないが、下からはとても登れない。窓枠を擦るように揺れる枝はわたしの体を支えうるだろうか。たくさんの枝が伸びたその木は魔女の館を覆うように寄り添って立っている。それでも仔猫に手が届くほどではなく、雨のせいかいつもいる栗鼠も姿が見えない。
私は窓枠に登り、手を伸ばして頭上の枝にぶら下がってみた。太い枝は柔らかくしなってわたしの体を支えてくれている。これなら大丈夫だろうと、なるべくゆっくりと、下を見ないようにして仔猫のそばまで進んでいった。
仔猫はおとなしくわたしの手に身を預け、細い爪をたてて襟元にしがみついてくる。あとは来た道を戻るだけ。
二歩進んだところで、片足が滑って慌てて枝を握る。驚いた仔猫が私の頭の方へ駆け上がろうとしたため、私は枝から手を滑らせた。大きく傾いた体はもう自分ではどうしようもなく、あっと思った時には仔猫と一緒に枝を滑り落ちていた。
十分に想像し得る事故だったが、その時の私は仔猫を救う勇者にでもなったようなつもりでいたのだ。愚かにも自分の運動神経の無さを忘れて。
衝撃に備えてギュッと眼を瞑ったが、思ったような痛みは来なかった。
恐る恐る目を開ければ、そこには大好きなヒトの顔があった。
目深にフードを被ってはいるが、僅かに覗いている焦げ茶の癖毛、笑いを含んでこちらを見下ろす優しい琥珀色の瞳、すっきりと整った美しい顔立ちは、人狼族の青年、ロウのものだ。
雨の雫がフードを伝って頬に落ち、はっと気付いた。ロウが木から落ちた私と仔猫を受け止めてくれていたのだ。
嬉しさと恥ずかしさと驚きで、咄嗟に言葉が出ない。ロウが魔女の館に来るのは本当に久しぶりのことで、もう二度と会えないのではないかとさえ思っていた。
「お姫様、無茶はほどほどにしないと、魔女に叱られるよ」
張りのある弦楽器のような美声で囁かれれば、ますます心臓がバクバクとうるさく騒ぐ。
「た、助けてくれて、ありがとう」
何とかお礼の言葉を述べれば、ロウはにっこり頷いて、私を横抱きにしたまま、玄関の方へと歩き出した。
大丈夫、歩けるよ、と言おうとしたが、ロウがまたどこかに行ってしまうことを恐れて口をつぐんだ。少なくとも今の瞬間は私を放り出して消えてしまったりしないはずだ。
館に入るとジェスリルが螺旋階段を降りてくるところだった。
優雅にマーメイドラインのドレスの裾を捌いて降りてくると、ロウと短いあいさつを交わす。
「エリルの危機には勇者のように現れるのだな」
「たまたまだ。尤も、この館でエリルが怪我をすることないだろうが。お姫様はなぜ木に登ったりしたんだ?」
二人が面白いものを見るような目で私を見るので、恥ずかしくて居た堪れない。
しかも仔猫共々濡れそぼっている。
床に降ろされた私が、ロウの腕の中を名残惜しい気持ちでいると、大きな手が私の濡れた髪を耳にかけるように動き、優しく肩に置かれた。私はロウにもう一度助けてくれたお礼を言った。
腕の中の仔猫がぶるりと体を震わせた。
「エリル、こっちへおいで」
ジェスリルに呼ばれて近寄れば、魔法の力で瞬時に濡れた服も髪も乾いて暖かさに包まれた。
仔猫もすっかり乾いて毛がふんわりとしている。
ロウは雨よけのマントを羽織っていたため、ほとんど濡れておらず、ジェスリルの魔法は断ったようだ。
私はロウのマントを預かり、お茶を入れる為に台所へ向かった。仔猫にもミルクをあげよう。
客間にお茶を運ぶと、いつもは話の邪魔をしないように自室に戻るのだが、今日は違った。私にも話があるという。
ジェスリルの横に座り、向かいのソファーに座るロウを見れば、いつに無い真剣な表情で、私を見返してくる。
「エリル、これからジェスが話すことをよく聞いて、自分の判断で選んでほしい」
何を選ぶのだろう。話とは何なのだろう。まさかこの家を出て一人立ちしろとか?一瞬にして悪い想像が膨らむ。
いつかは出て行かなければならないと思っていた。ジェスリルは私を拾って育ててくれたが、血が繋がっているわけでは無い。いつまでも働かずに世話になるわけにはいかないだろう。
私は覚悟を決めてジェスリルに向き直った。しかしジェスリルの唇から紡ぎ出された言葉は私の想像とは違うものだった。
「エリル、人間として生きていくか、私の跡を継いで魔女になるか」
私と養い親であるジェスリルが住む家は、古くて新しい、小さくて広い不思議な館である。何故ならジェスリルは魔女だから。
彼女の年齢は三百歳を優に超えている。にもかかわらず、艶のある黒髪は膝のあたりまで伸びゆるく波打っている。 何でも見通す神秘の瞳は見るたびに様々な色に変わり、聡明で落ち着いた声音は誰もを虜にしてしまう。
私の拙い言葉では到底言い表すことなど出来ないが、ジェスリル以上に美しい存在などこの世には存在しないと思う。
私たちはある時は森の中に、ある時は街の中に、またある時は崖の上に住んでいる。館の地下にさまざまな場所へ通じる扉があり、ある扉は街の薬屋の奥に、ある扉は山小屋に、ある扉は崖の下の洞穴にといった具合に扉ひとつで私たちは自由に出入りできる。
十数年の間、私たちはこの館で穏やかな暮らしを楽しんでいた。
訪れる客は吸血鬼、人狼、妖精。人間は勿論、動物たちも皆、美しいジェスリルに逢うため、また、困り事の相談など、ジェスリルを頼りにして訪れる。不思議な魔女の館。そこに住むのは魔女ジェスリルと人間の私の二人だけ。
今日、私はジェスリルから一冊の素敵な本を貰った。真新しい皮の装丁。表紙にはエリルと私の名が刻印されている。
中身はまだ無い。ジェスリルはこれから起こる出来事を綴っていきなさいと言う。
これから起こる様々な事を、この本に書いていく。つまりは日記帳なのだけれど、ここは魔女の館。これは魔女の書といってもいいかもしれない。
なんて、本来の魔女の書はちゃんと別にある。館の一部屋を埋め尽くす革の装丁の数千冊の本たちが、代々の魔女の生涯を自動的に記録しているのだ。私は魔女ではないから、その部屋の本にわたしの生涯が記録されることはない。その時はそう思っていた。
その日は朝から雨だった。
晴れの日も、曇りの日も好きだが、私は雨の日が一番好きだ。それも今日のように、風の無い日にしとしとと降り続ける雨に、家ごとすっぽり包まれているような日がいい。
ベッドにいくつもクッションを重ねて、美味しいお菓子とあったかい紅茶を用意する。あとは数冊の本を持ち込めば、今日一日はベッドの上で過ごせる。
ジェスリルも書斎で本を読んでいるはずだ。
私はしばらく物語の世界に飛び込む、つもりだったが、先程から聴こえてくる鳴き声が気になって本に集中できない。
仕方なく、鳴き声の主を探す事にした。
窓を押し開き、身を乗り出す。まっすぐ前方から声は聞こえてくる。私の部屋は外から見れば二階の部分にある。目の前には立派な楓の木が枝を伸ばしている。
その木の枝にしがみついている黒い仔猫を見つけた。仔猫も此方に気付いて、ミュゥと助けを求めるように鳴き声を上げる。
枝を伝えば私の部屋まで来られそうだ。おいでおいでと呼んでみるが、高さにすくんでいるのか震えるばかり動こうとはしない。
こちらから助けに行くしかないが、下からはとても登れない。窓枠を擦るように揺れる枝はわたしの体を支えうるだろうか。たくさんの枝が伸びたその木は魔女の館を覆うように寄り添って立っている。それでも仔猫に手が届くほどではなく、雨のせいかいつもいる栗鼠も姿が見えない。
私は窓枠に登り、手を伸ばして頭上の枝にぶら下がってみた。太い枝は柔らかくしなってわたしの体を支えてくれている。これなら大丈夫だろうと、なるべくゆっくりと、下を見ないようにして仔猫のそばまで進んでいった。
仔猫はおとなしくわたしの手に身を預け、細い爪をたてて襟元にしがみついてくる。あとは来た道を戻るだけ。
二歩進んだところで、片足が滑って慌てて枝を握る。驚いた仔猫が私の頭の方へ駆け上がろうとしたため、私は枝から手を滑らせた。大きく傾いた体はもう自分ではどうしようもなく、あっと思った時には仔猫と一緒に枝を滑り落ちていた。
十分に想像し得る事故だったが、その時の私は仔猫を救う勇者にでもなったようなつもりでいたのだ。愚かにも自分の運動神経の無さを忘れて。
衝撃に備えてギュッと眼を瞑ったが、思ったような痛みは来なかった。
恐る恐る目を開ければ、そこには大好きなヒトの顔があった。
目深にフードを被ってはいるが、僅かに覗いている焦げ茶の癖毛、笑いを含んでこちらを見下ろす優しい琥珀色の瞳、すっきりと整った美しい顔立ちは、人狼族の青年、ロウのものだ。
雨の雫がフードを伝って頬に落ち、はっと気付いた。ロウが木から落ちた私と仔猫を受け止めてくれていたのだ。
嬉しさと恥ずかしさと驚きで、咄嗟に言葉が出ない。ロウが魔女の館に来るのは本当に久しぶりのことで、もう二度と会えないのではないかとさえ思っていた。
「お姫様、無茶はほどほどにしないと、魔女に叱られるよ」
張りのある弦楽器のような美声で囁かれれば、ますます心臓がバクバクとうるさく騒ぐ。
「た、助けてくれて、ありがとう」
何とかお礼の言葉を述べれば、ロウはにっこり頷いて、私を横抱きにしたまま、玄関の方へと歩き出した。
大丈夫、歩けるよ、と言おうとしたが、ロウがまたどこかに行ってしまうことを恐れて口をつぐんだ。少なくとも今の瞬間は私を放り出して消えてしまったりしないはずだ。
館に入るとジェスリルが螺旋階段を降りてくるところだった。
優雅にマーメイドラインのドレスの裾を捌いて降りてくると、ロウと短いあいさつを交わす。
「エリルの危機には勇者のように現れるのだな」
「たまたまだ。尤も、この館でエリルが怪我をすることないだろうが。お姫様はなぜ木に登ったりしたんだ?」
二人が面白いものを見るような目で私を見るので、恥ずかしくて居た堪れない。
しかも仔猫共々濡れそぼっている。
床に降ろされた私が、ロウの腕の中を名残惜しい気持ちでいると、大きな手が私の濡れた髪を耳にかけるように動き、優しく肩に置かれた。私はロウにもう一度助けてくれたお礼を言った。
腕の中の仔猫がぶるりと体を震わせた。
「エリル、こっちへおいで」
ジェスリルに呼ばれて近寄れば、魔法の力で瞬時に濡れた服も髪も乾いて暖かさに包まれた。
仔猫もすっかり乾いて毛がふんわりとしている。
ロウは雨よけのマントを羽織っていたため、ほとんど濡れておらず、ジェスリルの魔法は断ったようだ。
私はロウのマントを預かり、お茶を入れる為に台所へ向かった。仔猫にもミルクをあげよう。
客間にお茶を運ぶと、いつもは話の邪魔をしないように自室に戻るのだが、今日は違った。私にも話があるという。
ジェスリルの横に座り、向かいのソファーに座るロウを見れば、いつに無い真剣な表情で、私を見返してくる。
「エリル、これからジェスが話すことをよく聞いて、自分の判断で選んでほしい」
何を選ぶのだろう。話とは何なのだろう。まさかこの家を出て一人立ちしろとか?一瞬にして悪い想像が膨らむ。
いつかは出て行かなければならないと思っていた。ジェスリルは私を拾って育ててくれたが、血が繋がっているわけでは無い。いつまでも働かずに世話になるわけにはいかないだろう。
私は覚悟を決めてジェスリルに向き直った。しかしジェスリルの唇から紡ぎ出された言葉は私の想像とは違うものだった。
「エリル、人間として生きていくか、私の跡を継いで魔女になるか」