「あなた、随分顔色が悪いわね」

 橋の欄干に手を掛け、ぼぅっとしながらただただ川の流れを眺めている時だった。背後から知らない女性に声をかけられ反射的に振り返る。すると、(つぶ)らなくりっとした瞳と目が合った。

「あらやだ、真っ青じゃない。そんな所にいたら凍えてしまうわ。ちょっとこっちに来て」

 ぐいぐいと手を引かれ近くのベンチに強引に連れて行かれる。高い位置で結ばれた長い黒髪が左右に揺れているのが印象的だった。

 有無を言わせずそのまま座らせられると「これ飲んで」と持っていた水筒を渡された。じっと監視するように見られているので、仕方なく一口だけ喉に流し込む。

「あなた学生さん?」
「いえ、社会人です」
「そうなの? それにしては随分細いわね……ご飯ちゃんと食べてる? だめよ、ちゃんと食べなきゃ。もやしっ子って言われてバカにされちゃうわ」

 何やら鞄をゴソゴソとあさる。

「腹が減っては戦ができぬ。何があったか知らないけど、とりあえずこれでも食べて元気出して」

 そう言って風呂敷のような包みを開く。目の前に出されたのはまん丸く握られたおにぎりだった。

 戸惑いながら受け取って、一口かじる。口の中にほんのり塩の味が広がった。

「……美味しい」
「でしょ? あたしの手作り食べられるなんてあなたついてるわよ!」

 ニコリと笑った彼女は安心したように隣に座った。

「……もう大丈夫そうね」
「え?」
「突然連れ出してごめんなさい。なんだか今にも川に身を投げそうだったから思わず声をかけちゃった」

 どきりと心臓が鳴った。……確かにその考えもあった。だけど、実行したところでどうなる。どうせ死ねないこの身体だ。結果は目に見えている。私は苦笑いを浮かべて答えた。

「そんな気はなかったんですが……」
「あらやだ、あたしの勘違い? ごめんなさいね」
「いえ。悩んでいたのは確かですしね。おにぎりご馳走様でした。美味しかったです」

 ベンチからそっと立ち上がる。

「あなた今どこに住んでるの?」
「この町には来たばかりなので。今は宿に寝泊まりしてます。住む場所はこれから決めようかと」
「ならうちに来ればいいわ!」
「え?」」
「うち、下宿屋やってるの。部屋ならたっくさんあるから遠慮しなくていいわよ。もちろん家賃も格安だし!」
「ですが……」
「あ、自己紹介がまだだったわね。あたし森野すみれ。あなたは?」
「中村……清太(せいた)です」
「中村さんね。じゃあ行きましょ!」
「え、いや、まだ行くって……」
「早く早く! あたし夕飯の支度しなくちゃいけないんだから!」

 森野さんに連れられて来た下宿屋に着くと、あっという間にお世話になることが決まった。

 下宿屋〝森野荘〟は長屋になっていて、部屋のひとつひとつが薄い壁で区切られている。四畳半の部屋の中には文机がひとつと布団が畳んで置いてある他は何もないが、一人で暮らす分には不自由ないだろう。風呂とトイレは共同。朝晩食事付きで、昼は各自用意すること。

 ちなみに森野さん一家は少し離れた一軒家に住んでいるそうだ。

 一通り説明を受け、森野さんとそのお母さんが作った夕食を頂き、部屋でごろりと横になる。

 ……なんだか久しぶりにちゃんとした人間の生活をした気がした。ここ数日は飲まず食わずだったから。

 横になってるうちに、なんだかウトウトしてきた。重力には逆らえず、ゆっくりと瞼を閉じる。

 ……ここは、とても心地いい。





「おはよう中村さん!」
「おはようございます森野さん」

 挨拶を交わすと、森野さんの顔がちょっと不満気になった。

「もう。すみれって呼んでって言ってるのに!」
「いえ、ですが」
「敬語もなし! あたしの方が年下なんだから遠慮するなんておかしいでしょう?」

 まぁ確かに、私の方が年上なのは変わりない。ふむ、と少しだけ考えてから彼女にひとつ提案をした。

「じゃあ、私のことも名前で呼んでいいですよ」
「え?」
「これならフェアでしょ? ね、すみれさん」

 そう言うと彼女は頬を赤らめた。こういう所はまだまだ子供のようだ。私が思わずクスリと笑うと、今度は怒ったように頬を膨らませる。コロコロと変わる表情が実に可愛らしかった。

「おっ! すみれちゃん!」
「すみれちゃん今日も可愛いねぇ。デザートのオマケよろしくな!」
「すみれちゃん今度の休み暇かい? 映画のチケット貰ったんだけど、一緒にどう?」

 すみれさんは家の手伝いをしているようで、下宿の住人たちからえらく人気が高かった。明るくて可愛い女の子なのだから、当たり前か。

 森野荘で世話になるにあたって、私は近くの部品工場で働くことになった。家賃も支払わなければならないし、甘えてはいられない。

「清太さん! これ、お弁当!」

 すみれさんは仕事に行く私に毎日お弁当を作ってくれた。こうして出勤する前に必ず渡しに来てくれる。

「いつもありがとう」
「ううん、いいの。いってらっしゃい!」

 満面の笑みで送り出されるのが、ここに来てからの日課になっていた。

〝いってらっしゃい〟か。当たり前に使われるその言葉がじんわりと胸に染み込んだ。

 帰る場所があり、そこに待っている人がいる。

 こんな些細なことが嬉しくて仕方ない。……だけど、同時に怖かった。失った時を考えると、とても。

「羨ましいねぇ」
「おはようございます川上(かわかみ)さん」

 同じ下宿人の川上さんがニヤニヤしながら言った。

「あんな良い子に気に入られちゃって。それ手作り弁当だろ?」
「ええ。そのようです」
「っかー! 羨ましい限りだよまったく」

 ここで私は首を傾げた。だって、あのお弁当は下宿屋の住人皆に渡しているものじゃないか。

「皆さんも作ってもらってるのでは?」
「は? 何言ってんだよ。……まさか気付いてねぇの?」
「……気付く? 何を?」
「っかー!! これだから今の若者は! いいか! ここの食事は朝晩だけだ! 昼は各自で用意するって初日に説明されただろ!?」

 川上さんは捲し立てるように言った。

「つまりすみれちゃんはなぁ、お前にだけ特別、毎日自分で弁当作って持って来てんだよコンチクショウ!!」
「かっ、川上さん!!」

 大きな声に振り返ると、真っ赤な顔をしたすみれさんが走ってくる所だった。

「もう! 何言ってるんですか! やめて下さいよまったくもう!!」

 照れ隠しなのかよく分からないが、彼女は川上さんをポカポカと叩き出す。

「いてて! ごめんごめん! すみれちゃんごめんって!」
「……すみれさん」

 私が声を掛けると、動きがピタリと止まった。

「今の話は本当ですか?」

 すみれさんは真っ赤になって左右に視線をさ迷わせたあと、微かに首を縦に動かした。胸がきゅっと締め付けられ、心臓がドキドキと高鳴る。

「……えっと、嬉しいです。ありがとうございます」

 返事の代わりにはにかんだその笑顔が頭から離れない。こんな気持ちになったのは初めてだった。

 でも、ダメだ。だって私は神の元へ逝く事を赦されない存在──老いる事も死ぬ事も出来ない、不老不死なのだから。