「綺麗な音色だね」
「だ、誰だ!」

 宮中から離れた裏庭。人の寄り付かないこの場所は、黒兎にとって格好の練習場所だった。今日もこっそりと横笛の練習をしていたのだが、突然聞こえてきた声に驚いて振り返る。

 濃紺色の着流し、病的なまでに白い肌。柔らかく下がった垂れ目の男が、微笑みながら黒兎を見ていた。宮中では見かけたことのない顔だ。

「驚かせてごめんね。あんまり綺麗な音だったから、つい」
「はぁ? アンタ正気かよ。俺なんて全然まだまだだ。今日だっていっぱい間違えて、怒られてばっかりで……っ!」

 話しの途中で黒兎は気付いた。コイツはたぶん、みんなが噂している〝(けが)れた子〟だという事に。穢れた子とは話しをするな、話せば自分も穢れてしまうぞという親からの言い付けを思い出した黒兎は慌てて自分の口を押さえる。男はその様子を気にすることなく笑って言った。

「邪魔しちゃって悪かったね。はいこれ。いつも綺麗な音をありがとう。これからも練習頑張って」

 そう言って石の上に何かを置くと、男は消えるようにその場を立ち去った。

 置かれていたのは、色とりどりの金平糖が詰められた小さな瓶だった。……毒でも入っているのだろうか。黒兎は疑わしげにその小瓶を手に取る。試しに蟻に与えてみるが、特に変わった様子はない。おそるおそる口に放り込むと、砂糖の甘みがふわっと広まった。

 ……なんだよアイツ。変な奴。

 それから、練習中にアイツと顔を合わせることが多くなった。アイツは俺の邪魔をしないように気を使っているのか少し遠くの丸石に腰を下ろし、目を瞑って静かに俺の音を聴いていた。演奏とは言えないひどいものだったろうに、アイツは俺の練習が終わるまでそこを動かなかった。

 そして、俺の練習が終わると必ず金平糖をひと瓶置いていく。俺はいつのまにか、アイツから貰う金平糖が楽しみになっていた。

「その笛が奏でる音色が美しいのは、君の心が綺麗だからだよ。その笛は奏者の心の音なんだ。その音がずっと続くことを、僕は祈っているよ」

 奴から言われたその言葉が忘れられない。皇妃様や父から聞く話によると相当な悪人みたいだけど……俺にはそうは思えなかった。

 ある日、俺は思い切って父に聞いてみた。

「……父上」
「なんだ?」
「あの……隔離されている男というのは本当に悪人なのでしょうか。半分人間の血が流れているからといって、何もあそこまで差別しなくても、」

 パァン!! やけに大きな音が耳元で響いた。頭が揺れ、軽く眩暈がした。何が起きたのかまったく分からない。ただ、左の頬がじんじんと熱かった。

「お前!! 間違っても皇妃様の前でそんなこと口走るなよ!?」

 今まで見たことのない父の気迫が恐ろしかった。ぐっと胸ぐらを掴まれ、息が苦しくなる。

「奴は皇妃様の敵。穢らわしい存在。生きてるだけで罪なのだ!」
「……っ」
「いいか。我々一族の使命は皇妃様への絶対的な忠誠を誓うことだ。その誓いを破れば我々の明日はない。肝に命じておけ!!」
「……はい」

 叩かれた頬の痛みは引いても、胸の痛みはいつまで経っても引いてくれなかった。





「……変なこと思い出しちまった」

 黒兎が苦々しい顔で言った。

「大丈夫。君の音はあの時から何一つ変わっていないよ。だから、」
「……傷が残るから手荒な真似はするなって言われてたんだけどなぁ。ほら、お前一応帝の息子だから。あーあ。不完全な不老不死ってホント面倒くせー。でもま、傷付けなきゃ問題ないか。……ったく。最初からこうしておけば良かったんだ」
「……黒兎くん」
「お次は、貴方の為の呪術を奏でて差し上げましょう」

 三日月形に目を細めると、黒兎は横笛に口を付ける。

 ──その時だった。夜空の月が弾けんばかりに一気に輝いて、スポットライトのように二人の体を照らす。その眩さと衝撃に、彼らの動きはピタリと止まった。


「おやめなさいっ!!」


 大きな叫び声が聞こえると、宝石のような光の群れがまっすぐこちらに降ってきた。まるでカーペットを敷いたような光の道の真ん中を、立派な牛車がするすると走ってくる。唐破風(からはふ)の屋根に大きな車輪、黒塗りの箱には様々な装飾が施されていて、身分の高さが一目で分かった。
 二人の目の前で牛車が止まると、赤い(すだれ)が捲られる。付き添いの者が素早く用意した(はしたて)を降りてくるのは、鮮やかな十二単を着た美しい女性だった。見覚えのあるその姿はどこか懐かしさを感じる。

「……か、かぐや様!?」

 黒兎は彼女の姿に気付くと慌ててその場にひれ伏した。

「……かぐや?」
「お兄様!!」

 名前を呼ばれると、彼女はたいそう嬉しそうに笑って月野に手を伸ばす。あの日以来一度も会っていなかった妹のかぐやは、もうすっかり立派な女性に成長していた。美しさにも磨きがかかっている。

「お久しぶりですお兄様! ずっとずっとお会いしたかったわ! ああ! 元気そうで何よりです!!」
「かぐやもすっかり綺麗になって。驚いたよ。それよりどうしてここに?」
「羽代とお父様に協力してもらってコイツの後をつけて来たの。お母様の動きが変だったから密かに調べてたんだけど、やっぱり見張ってて正解だったわ」

 かぐやは冷ややかな目で黒兎を見下ろすと、その姿にはそぐわぬ低い声で言った。

「黒兎。顔を上げなさい」

 かぐやの呼びかけに黒兎はひれ伏していた頭を上げる。顔色は悪く、額には冷や汗が見えた。

「月の国第一皇女月野かぐや。これより因幡黒兎に帝からの勅命を言い渡す。〝黒兎は今すぐ地上から国に帰還せよ。何人(なんぴと)も傷付けてはならぬ。これを破れば処罰の対象とする。〟以上」
「し、しかし! 私は皇妃様の命を受けて、」
「母にはわたくしから話しておきます。おそらくこの件については父からも話がいくはずです。ああ、母からあなたに罰が下されることはないから安心なさい」
「しかし、」
「これは帝からの勅命です。逆らうことは謀叛とみなします」

 黒兎はぐっと押し黙ると、小さな声で「はい」と返事をした。かぐやは十五に向き直ると笑顔に戻る。

「大丈夫よお兄様。お母様にはわたくしとお父様からきちんと話しておくから。すぐには無理かもしれないけど……でも、もうこんなことさせないようにするわ。わたくしもお父様も国に帰って来てほしいのはやまやまだけど、お兄様には幸せになってほしいから何も言わないわ。だって、あんなところじゃお兄様は幸せになれないでしょう?」
「……かぐや」
「……わたくしは、お兄様には自分の好きなことを好きなようにやっていてほしいの。それはお父様も同じよ」

 うっすら浮かんだ涙を隠すように顔をそらしたかぐやは、奥の方で固まっている二人を見付け驚いた。そして、怒ったように黒兎に命令を下す。

「黒兎、二人の石化を解きなさい。今すぐに」
「……はい」

 黒兎は小さく息を吸って横笛を演奏する。先ほどとは違うメロディーが流れると、二人はぱっと動き出した。

「あ、あれ? オレたち……」
「石化していたのね。因幡の笛の事は知っていたのに……情けないわ」
「なんか所々記憶があやふやなんスけど……って月さん!? 月さんは!?」
「羽留!」

 弾むような声に振り向くと、宇佐美は顔を輝かせる。

「かぐや様!?」
「久しぶりね! 元気だった?」
「はい、おかげさまで。かぐや様もお元気そうで」
「ええ、わたくしは元気よ。それと、羽代があなたのことをとても気にかけていたわ。戻ったら元気だったって伝えておくわね」
「ありがとうございます」

 かぐやはにっこりと笑う。

「それと安心して。お兄様はこれからもここで郵便局を続けていくから」
「マジッスか!! や、やった!!」
「あら、あなたは?」

 不思議そうに小首を傾げながら、かぐやは七尾に向かって聞いた。

「あ、初めまして! オレは月さんと宇佐美さんと一緒に郵便局をやってる七尾ッス!」
「まぁ、あなたがそうなの? わたくしは月野十五の妹で月野かぐやと申します。お兄様がいつもお世話になって」
「いえいえこちらこそッス! いやぁ、それにしても月さんの妹さんってめちゃめちゃ美人ッスね!! お近付きの印にみんなで食事でも──いひゃい!! なんれほっぺらつねるんれすかうひゃみひゃん!」
「黙れセクハラ野郎。申し訳ございませんかぐや様。彼の言うことはどうかお気になさらず」

 宇佐美は七尾の頬を力一杯つねりながら頭を下げる。かぐやはクスクスと楽しそうに笑っていた。

「羽留、七尾さん。これからもお兄様のこと、よろしくお願いしますね」
「はい」
「任せて下さいッス!!」
「ふふっ。あなた達が一緒ならわたくしも安心だわ。……あら、もうこんな時間。もっとお話していたいけど、あんまりゆっくりしていられないの。お母様のこともあるし……残念だわ」
「あ、じゃあまた今度来てくださいよ! オレたちいつでも待ってるんで!」

 七尾の言葉に驚いたように目を丸くしたかぐやは、ふふっ、と嬉しそうに笑って「ありがとう」と呟いた。そのままくるりと振り向くと、黒兎に向かって大きな声で叫ぶ。

「さぁ帰るわよ黒兎!! 帰ったらたっぷり反省してもらいますからね!」
「……はい」

 黒兎は渋々と立ち上がり、黄金に輝く光の道へ雲を動かす。

「それじゃあお兄様、少しでもお会いできて嬉しかったわ」
「うん。僕もだよ」
「これからも元気でお過ごし下さいね」
「かぐやもね」
「ええ。わたくしもお父様も、月の都からお兄様のことを見守っていますわ」
「ありがとう」

 かぐやはふぅ、と息を吐く。

「お父様には口止めされてたけど……やっぱり伝えるわ」
「……え?」
「あのね、お父様は宮中でお兄様を守れなかったこと、とても後悔していたの。わたくしの恋のことも、追放を止められなかったこともね。だから、お兄様が地上でやりたい事を見つけたって聞いた時、お父様は自分のことのように喜んでいたのよ。だって──」

〝かぐや、十五。私はお前たち二人のことを心から愛しているよ。だから何も恐れず、自分の好きなように生きなさい。それが私の幸せだ〟

「お父様はお兄様の幸せを心から望んでいます。その気持ちは、忘れないで」
「……うん。ありがとう。伝えてくれて本当にありがとう、かぐや」
「ふふっ。じゃあそろそろ行くわ。お兄様……また会う日まで」

 かぐやは目に涙を浮かべながらも、にこりと精一杯の笑顔を作る。薄桃色の羽衣をひらりと翻し、颯爽と牛車へ乗り込んだ。かぐやを乗せた牛車は月へ向かってゆっくりと昇って行く。

 眩いほどの輝きは消え去り、夜空には大きなまん丸い月がひとつ、ぽっかりと浮かんでいた。