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ある晩のこと。
みんなが深い眠りについている時刻に戸口から「……お兄様」という小さな声がした。
「かぐや?」
読書をしていた十五は立ち上がり、そっと襖を開ける。
「……お兄様」
かぐやは頬をほんのりと赤く染め、とろんとした目で十五を見上げる。視線も定まっておらず、心ここに在らずと言った様子だった。
「こんな夜更けにどうしたんだい?」
「お兄様……あの、わたくし……」
かぐやは胸に手を当て口をぱくぱくと動かす。
「わたくし……こ、恋をしてしまいました!」
茹でダコのように真っ赤になったかぐやを暫くの間ぽかんと見つめる。恥ずかしそうに両手で顔を隠す仕草が可愛くて、十五はクスリと笑った。
「外は冷える。さぁ、中へお入り?」
かぐやは二つ返事で了承すると、パタパタと十五の部屋に入った。
「それで? かぐやは一体誰に恋をしたんだい?」
「名前も分からない、素敵な殿方でした。だってね、目が会った瞬間ビビビっときたの!!」
「なるほど。その彼とはどこで会ったんだい?」
かぐやは一瞬躊躇うように視線を外す。
「……誰にも言わないで下さいね」
そう前置きして、ぽつりと言った。
「……月夜見湖です」
「月夜見湖……?」
その名前を聞いてざわざわと胸が騒ぎ出す。だって、その場所は月の都のものではない。地上の場所の名前だ。
そして──
十五の父と母が、初めて出会った場所である。
「数日前、わたくし散歩をしていたら月夜見山に迷い込んでしまって……。わざとじゃないのよ!? 本当に迷い込んでしまっただけなのよ!? ……そしたらわたくし、山の中で転んでしまって。一瞬ふわっと体が浮いたと思ったら、そのまま落ちたみたいな感覚がして。気付いたら見知らぬ湖の前に立っていたの。そしたらそこに彼がいて……。お察しの通り、彼は月の住人ではありません。地上に住むただの人間です。でも、好きになってしまったの。それはきっと向こうも同じ……」
「かぐや、でも、それは……」
「分かってますわ。人間との恋が御法度なのも、お父様とお母様の事情も、……お兄様のことも」
はぁ、とかぐやの口から溜息が一つ。
「だけど、あの日から胸の高鳴りが止まらなくて……頭の中が彼でいっぱいなの。いけないことだって分かってるのに、どうしても彼に惹かれてしまうのよ」
「……かぐや」
「でもね、別に彼とどうこうなろうなんて思ってないわ。もう会う事もないでしょうしね。ただ、この気持ちを誰かに言いたかったの。だってあんなに運命的な出会い、他にはないもの。一瞬で好きになってしまうなんて……恋って不思議ね」
切なそうに笑うかぐやに、十五は言った。
「その男の特徴は?」
「……え?」
「背丈とか、顔付きとか、服装とか。何でもいいから、思い出せるものを言ってみてほしいんだ」
「ええと、そうね。目は大きくて、笑うとえくぼが出来て、立派な黒い着物姿で……ああそうだ。金色の糸で松の木の刺繍がしてある烏帽子をかぶってたわ」
かぐやは男の特徴をぽつぽつと語った。
「分かった。かぐやの恋の相手、僕が探してくるから」
「ええっ!?」
かぐやの顔がぼっと赤くなる。
「そ、そんな! だ、だって相手は人間よ!? 会いにいくには地上へ降りなくちゃいけないのよ!?」
「うん。でも僕なら自由に動けるし、地上に降りたって体調も悪くならない。ここは宮殿から離れているし、こっそり抜け出しても誰も気付かないさ。妹の初恋の人だ。兄である僕が会ってみたって構わないだろう?」
「で、でもっ」
「よし。そうと決まれば今からでもその彼を探しに……」
「ま、待って!」
かぐやは頬を染めたまま言った。
「もし彼に会えたなら、渡してほしいものがあるの」
「渡してほしいもの?」
「そう。……今から彼に手紙を書くから、それを渡してほしいの」
「もちろんいいよ。待ってるからゆっくりお書き」
「あ、ありがとうお兄様!!」
暫くすると、かぐやは丁寧にたたんだ白い半紙を持って来て十五に託した。
「どうかお願いね、お兄様」
彼女の目一杯の想いが込められたこの手紙は、十五が初めて〝誰か〟に届ける手紙となった。