「あっ! お兄様!!」
長い廊下をパタパタと駆けてくる音がする。
「えいやっ!」
「ぐふっ!」
威勢の良い掛け声と共に腰のあたりに大きなダメージを受ける。倒れそうになるのをなんとか堪えて、ゆっくりと首を後ろに向けた。
「……かぐやは今日も元気だね」
「ええ! 何事も元気が一番ですもの! それにしてもお兄様は相変わらず細いわね。ちゃんと食べてるの? 木の枝かと思ったわ」
「木の枝って……酷いなぁ」
十五は困ったように笑うと、腰に回されていた腕を優しく解いた。
「かぐや様!!」
「ぎゃっ!」
耳に響く怒りのこもった大声は、かぐやの付き人である羽代のものだった。その姿を見るや否や、かぐやは慌てて兄の背に隠れる。
「探しましたよ! まったく! 勝手に出歩かないで下さいと言っていますのに!! 廊下もドタドタと! せっかくのお召し物が汚れてしまいます!! はしたない真似はおやめくださいませ!」
「そ、そんなに怒らないでよ! 次からは気を付けるわ!」
「その台詞は聞き飽きました! いったい何度目の〝次〟になったら直るんでしょうね!」
二人のテンポ良い会話に、十五はクスリと笑い声を漏らした。
「怒られてるわたくしを見て笑うなんて! お兄様ったら酷いわ!」
「ふふっ。ごめんごめん」
「……十五様も早く自室に戻られては如何です? 用事はお済みになったんでしょう?」
十五の顔も見ないまま、付き人である羽代は棘のある口調で言い放つ。
「羽代! お兄様に対してその態度は──」
「かぐや」
十五は手に持っていた書物を軽く掲げると人当たりの良い笑顔を浮かべる。
「ではそうさせてもらうよ。足止めさせて悪かったね。かぐや、羽代さんをあまり困らせちゃいけないよ」
「ですがお兄様!」
「じゃあ、またね」
不満げなかぐやと、どこか申し訳なさそうにして顔をそらす羽代に向かって軽く会釈すると、十五は自室に向かって歩き出した。
「十五様」
部屋に入ると、自分の付き人である羽留がお茶を用意して待っていた。その顔を見て、十五はほっと胸をなでおろす。
「お探しの書物は見つかりましたか?」
「ああ。戻る途中でかぐやに会ってね。後ろからタックルされちゃって、もう少しで倒れてしまうところだったよ。いやー危ない危ない。やっぱり僕も鍛えた方がいいのかなぁ?」
「鍛えている途中でぶっ倒れるのが目に見えてるのでおやめください」
「ははっ。羽留くんは厳しいねぇ」
「……あの、もしかして姉にも……」
「ああ、会ったよ。相変わらずかぐやのお世話にてんてこまいのようだけど、元気そうで何よりだ」
羽留の顔がどんよりと曇った。
「……失礼な態度の数々、申し訳ありません。姉に代わって謝ります。ですが本心ではないのです。どうか、どうかお気を悪くなさらずに……」
「勿論わかっているよ。だから君たちが謝る必要はない。だって、皇妃様の命令には逆らえないだろう?」
十五はさらりと言った。
「実子ではない僕を彼女が嫌うのは仕方ないよ。それに、僕の本当の母親は人間だったみたいだから、この国では皇妃だけじゃなく僕を忌み嫌う者は多いだろう。後ろ指さされるのは生まれた時から慣れっこだ」
その言葉に、羽留は悲しそうに俯く。
──その昔、月の都を統べる帝であり、十五の父である宵月は人間の女に恋をした。
まだ帝になったばかりの頃。彼は気分転換に宮殿を抜け出し、一人で散歩をすることが多かった。だって、宮中は息がつまる。宵月は昔から、あの無駄に広い箱の中に居るがあまり好きではなかったのだ。
そして、その日も。いつものように宮殿を抜け出し、夜の散歩を楽しんでいた宵月だったが、気付けば見たことのない風景に囲まれていた。右も左も鬱蒼と生い茂る草木ばかりで、振り返っても今来た道が分からない。……まさか迷ってしまったのだろうか? 帝だというのに? ああ、情けない。
とにかく周りの草をガサガサと掻き分けて進んでいく。着物の裾が草に引っかかって少し歩きにくかった。すると突然、ふわりと体が浮いたように感じて動きが止まる。
「っ!?」
何が起きたのか考える暇もなく、突然底のない落とし穴に落とされたような感覚に襲われた。
だが、それもほんの一瞬。反射的に閉じてしまった目をそろりと開くと、湖の広がる森の中に立っていた。水面に揺れる光が宝石のように輝いていて、幻想的な雰囲気を醸し出している。光の正体を探して顔を上に向けると、夜空と共にまるい月が遠くの方に見えた。さっきまで自分が立っていたはずの、美しい月が。……まさか……ここは地上なのか?
「……誰?」
知らない声に驚いて辺りを見回す。すると、少し先でしゃがみこんでいた女性が不思議そうな顔でこちらを見ていた。宵月ははっと息を呑むと、その場から動けなくなった。
見上げるその瞳の、なんと美しいことか。
黄金とも宝石とも違う、純粋な輝き。こんなに美しい瞳を持った女性には、今まで長く生きてきたが一度も出会ったことがない。宵月は、その人間の女に一目で心を奪われた。
神聖なる月の都の住人が、しかもその頂点に君臨する者が、穢れた地上の人間なんぞに現を抜かすなんて禁忌中の禁忌である。絶対にあってはいけないことだ。
だがしかし、女の、そして宵月の瞳が、魂が、苦しいくらいに惹かれあっている。
見つめあったまま、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
小さく息を吸うと、宵月はゆっくり右手を差し伸べた。女は躊躇いがちにその手を握る。
これはまさしく運命と呼ぶに相応しい出会いだった。理屈じゃない、理性じゃない。惹かれ合う心は、誰にも止められないのだ。
宵月が月の都で迷い込んだあの場所は、どうやら地上へ続く特別な場所だったらしい。これは宮中のごく一部にしか知られていない、機密事項である。宵月も、先代に聞いて初めて知ったことだった。
宵月はその場所から地上へ降りると、女と密かに逢瀬を重ねていた。例え禁忌だと知っていても、想いは止められなかったのだ。逢瀬は続き、やがて女は一人の子をもうけた。
それが月野十五、その人である。
宵月は大層喜び、女と共にその赤子を可愛がって育てていた。幸せだった。……あの日が来るまでは。
もともと宵月には婚約者の女性がいたのだ。それは後のかぐやの母親──十五の義理の母親になる女なのだが、この事を知った彼女はそれはそれは激怒した。
何度も言うが、月人と人間との恋は御法度なのだ。
帝といえど、それが公になったらタダでは済まないだろう。それに何より皇族の名に傷がついてしまう。宵月自身はそんなものどうでもいいのだが、周りはそうはいかない。
結局、宵月は女と強制的に別れさせられ、彼女が死ぬまで会う事を許されなかった。
生まれた子供も都の使者が女から奪うような形で引き取り、宮殿で育てることになった。半分とはいえ神聖なる月の、しかも帝の血が流れているのだ。放っておくわけにはいかない。
しかし、皇妃となった宵月の婚約者だった女は十五を酷く扱った。宮中の者には許可なく十五と話す事を禁じ、逆らったものには罰を与えるという命令を出していた。部屋を別邸に移され、宮殿の中も出入りを制限されている。皇妃の気持ちも分からないではないが、子供に罪はないのに。だが、彼は地上の子。関わるのはごめんだと、使用人達は大人しく皇妃の言葉に従った。
──数年後。
皇妃の元にも可愛らしい女の子が生まれた。かぐやと名付けられたその子は名前の通り美しく成長していった。もちろんかぐやにも十五と接触することは禁止していたのだが、どういう訳かかぐやは十五にとても懐いていた。書庫にいれば絵本を読んでとねだりに来たり、中庭にいれば一緒に散歩とついて行く。いくらダメだと言い聞かせても、かぐやは十五の側にやって来るのだ。
それは月日が経った今でもまったく変わらない。
監視の目をかいくぐり、周りの制止も聞かず十五に会いに行ってしまうので、付き人達は相当手を焼いているだろう。十五にとっては嬉しい話だが、事がバレて怒られるのは周りの人たちだ。もう少し考えて行動してほしいものである。十五は苦笑いを浮かべた。
「十五様、そんな事言わないで下さい。あなたを慕っている方はたくさんいます。私もその一人です。……私は、私は例え皇妃様の命令であっても、十五様の元を離れるつもりはございません」
おそるおそる顔を上げた羽留の目には、決意と覚悟がハッキリと映っていた。その言葉は羽留の本心であることは間違いない。
「ふふっ。嬉しいなぁ、ありがとう」
十五の笑顔に、羽留の心はほんわりと温かくなった。
長い廊下をパタパタと駆けてくる音がする。
「えいやっ!」
「ぐふっ!」
威勢の良い掛け声と共に腰のあたりに大きなダメージを受ける。倒れそうになるのをなんとか堪えて、ゆっくりと首を後ろに向けた。
「……かぐやは今日も元気だね」
「ええ! 何事も元気が一番ですもの! それにしてもお兄様は相変わらず細いわね。ちゃんと食べてるの? 木の枝かと思ったわ」
「木の枝って……酷いなぁ」
十五は困ったように笑うと、腰に回されていた腕を優しく解いた。
「かぐや様!!」
「ぎゃっ!」
耳に響く怒りのこもった大声は、かぐやの付き人である羽代のものだった。その姿を見るや否や、かぐやは慌てて兄の背に隠れる。
「探しましたよ! まったく! 勝手に出歩かないで下さいと言っていますのに!! 廊下もドタドタと! せっかくのお召し物が汚れてしまいます!! はしたない真似はおやめくださいませ!」
「そ、そんなに怒らないでよ! 次からは気を付けるわ!」
「その台詞は聞き飽きました! いったい何度目の〝次〟になったら直るんでしょうね!」
二人のテンポ良い会話に、十五はクスリと笑い声を漏らした。
「怒られてるわたくしを見て笑うなんて! お兄様ったら酷いわ!」
「ふふっ。ごめんごめん」
「……十五様も早く自室に戻られては如何です? 用事はお済みになったんでしょう?」
十五の顔も見ないまま、付き人である羽代は棘のある口調で言い放つ。
「羽代! お兄様に対してその態度は──」
「かぐや」
十五は手に持っていた書物を軽く掲げると人当たりの良い笑顔を浮かべる。
「ではそうさせてもらうよ。足止めさせて悪かったね。かぐや、羽代さんをあまり困らせちゃいけないよ」
「ですがお兄様!」
「じゃあ、またね」
不満げなかぐやと、どこか申し訳なさそうにして顔をそらす羽代に向かって軽く会釈すると、十五は自室に向かって歩き出した。
「十五様」
部屋に入ると、自分の付き人である羽留がお茶を用意して待っていた。その顔を見て、十五はほっと胸をなでおろす。
「お探しの書物は見つかりましたか?」
「ああ。戻る途中でかぐやに会ってね。後ろからタックルされちゃって、もう少しで倒れてしまうところだったよ。いやー危ない危ない。やっぱり僕も鍛えた方がいいのかなぁ?」
「鍛えている途中でぶっ倒れるのが目に見えてるのでおやめください」
「ははっ。羽留くんは厳しいねぇ」
「……あの、もしかして姉にも……」
「ああ、会ったよ。相変わらずかぐやのお世話にてんてこまいのようだけど、元気そうで何よりだ」
羽留の顔がどんよりと曇った。
「……失礼な態度の数々、申し訳ありません。姉に代わって謝ります。ですが本心ではないのです。どうか、どうかお気を悪くなさらずに……」
「勿論わかっているよ。だから君たちが謝る必要はない。だって、皇妃様の命令には逆らえないだろう?」
十五はさらりと言った。
「実子ではない僕を彼女が嫌うのは仕方ないよ。それに、僕の本当の母親は人間だったみたいだから、この国では皇妃だけじゃなく僕を忌み嫌う者は多いだろう。後ろ指さされるのは生まれた時から慣れっこだ」
その言葉に、羽留は悲しそうに俯く。
──その昔、月の都を統べる帝であり、十五の父である宵月は人間の女に恋をした。
まだ帝になったばかりの頃。彼は気分転換に宮殿を抜け出し、一人で散歩をすることが多かった。だって、宮中は息がつまる。宵月は昔から、あの無駄に広い箱の中に居るがあまり好きではなかったのだ。
そして、その日も。いつものように宮殿を抜け出し、夜の散歩を楽しんでいた宵月だったが、気付けば見たことのない風景に囲まれていた。右も左も鬱蒼と生い茂る草木ばかりで、振り返っても今来た道が分からない。……まさか迷ってしまったのだろうか? 帝だというのに? ああ、情けない。
とにかく周りの草をガサガサと掻き分けて進んでいく。着物の裾が草に引っかかって少し歩きにくかった。すると突然、ふわりと体が浮いたように感じて動きが止まる。
「っ!?」
何が起きたのか考える暇もなく、突然底のない落とし穴に落とされたような感覚に襲われた。
だが、それもほんの一瞬。反射的に閉じてしまった目をそろりと開くと、湖の広がる森の中に立っていた。水面に揺れる光が宝石のように輝いていて、幻想的な雰囲気を醸し出している。光の正体を探して顔を上に向けると、夜空と共にまるい月が遠くの方に見えた。さっきまで自分が立っていたはずの、美しい月が。……まさか……ここは地上なのか?
「……誰?」
知らない声に驚いて辺りを見回す。すると、少し先でしゃがみこんでいた女性が不思議そうな顔でこちらを見ていた。宵月ははっと息を呑むと、その場から動けなくなった。
見上げるその瞳の、なんと美しいことか。
黄金とも宝石とも違う、純粋な輝き。こんなに美しい瞳を持った女性には、今まで長く生きてきたが一度も出会ったことがない。宵月は、その人間の女に一目で心を奪われた。
神聖なる月の都の住人が、しかもその頂点に君臨する者が、穢れた地上の人間なんぞに現を抜かすなんて禁忌中の禁忌である。絶対にあってはいけないことだ。
だがしかし、女の、そして宵月の瞳が、魂が、苦しいくらいに惹かれあっている。
見つめあったまま、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
小さく息を吸うと、宵月はゆっくり右手を差し伸べた。女は躊躇いがちにその手を握る。
これはまさしく運命と呼ぶに相応しい出会いだった。理屈じゃない、理性じゃない。惹かれ合う心は、誰にも止められないのだ。
宵月が月の都で迷い込んだあの場所は、どうやら地上へ続く特別な場所だったらしい。これは宮中のごく一部にしか知られていない、機密事項である。宵月も、先代に聞いて初めて知ったことだった。
宵月はその場所から地上へ降りると、女と密かに逢瀬を重ねていた。例え禁忌だと知っていても、想いは止められなかったのだ。逢瀬は続き、やがて女は一人の子をもうけた。
それが月野十五、その人である。
宵月は大層喜び、女と共にその赤子を可愛がって育てていた。幸せだった。……あの日が来るまでは。
もともと宵月には婚約者の女性がいたのだ。それは後のかぐやの母親──十五の義理の母親になる女なのだが、この事を知った彼女はそれはそれは激怒した。
何度も言うが、月人と人間との恋は御法度なのだ。
帝といえど、それが公になったらタダでは済まないだろう。それに何より皇族の名に傷がついてしまう。宵月自身はそんなものどうでもいいのだが、周りはそうはいかない。
結局、宵月は女と強制的に別れさせられ、彼女が死ぬまで会う事を許されなかった。
生まれた子供も都の使者が女から奪うような形で引き取り、宮殿で育てることになった。半分とはいえ神聖なる月の、しかも帝の血が流れているのだ。放っておくわけにはいかない。
しかし、皇妃となった宵月の婚約者だった女は十五を酷く扱った。宮中の者には許可なく十五と話す事を禁じ、逆らったものには罰を与えるという命令を出していた。部屋を別邸に移され、宮殿の中も出入りを制限されている。皇妃の気持ちも分からないではないが、子供に罪はないのに。だが、彼は地上の子。関わるのはごめんだと、使用人達は大人しく皇妃の言葉に従った。
──数年後。
皇妃の元にも可愛らしい女の子が生まれた。かぐやと名付けられたその子は名前の通り美しく成長していった。もちろんかぐやにも十五と接触することは禁止していたのだが、どういう訳かかぐやは十五にとても懐いていた。書庫にいれば絵本を読んでとねだりに来たり、中庭にいれば一緒に散歩とついて行く。いくらダメだと言い聞かせても、かぐやは十五の側にやって来るのだ。
それは月日が経った今でもまったく変わらない。
監視の目をかいくぐり、周りの制止も聞かず十五に会いに行ってしまうので、付き人達は相当手を焼いているだろう。十五にとっては嬉しい話だが、事がバレて怒られるのは周りの人たちだ。もう少し考えて行動してほしいものである。十五は苦笑いを浮かべた。
「十五様、そんな事言わないで下さい。あなたを慕っている方はたくさんいます。私もその一人です。……私は、私は例え皇妃様の命令であっても、十五様の元を離れるつもりはございません」
おそるおそる顔を上げた羽留の目には、決意と覚悟がハッキリと映っていた。その言葉は羽留の本心であることは間違いない。
「ふふっ。嬉しいなぁ、ありがとう」
十五の笑顔に、羽留の心はほんわりと温かくなった。