「こんな所に居たら虫にさされますよ」
「うわあ!!」

 草むらでしゃがみこんでいる小さな背中に声をかけると、その体は面白いぐらいに飛び上がった。

 場所は月野郵便局の裏側、距離にして数百メートルしか離れていないその場所に、優也はぽつんと座って居た。周りに生い茂るススキの大群が、ちょうどよく優也の体を隠している。

「……見つけんの早すぎ。なんでわかったんだよ」
「知らない場所を闇雲に走り回るより近くに隠れて様子を見ていた方が効率的だから、優也くんもそうしたんじゃないかなって思ったのが半分。あとは、なるべくなら近くに居てほしいっていう僕の願望が半分。ほら、僕って体力ないからあまり動けなくてね。走って探したら貧血とか起こしちゃう可能性が高くて、逆にみんなに迷惑かけちゃうんだ。だからまずは近くを探して、いなかったら遠くまで走ろうと思ってたんだ」
「……ああ。確かにひ弱そうだもんな」
「気持ちは強靭(きょうじん)だよ」

 月野は優也の隣に同じようにしゃがんだ。

「飲み物やお菓子の一つでも持って来れたら良かったんだけど……気が利かなくてごめんね」
「……別にいらない」
「そう? 僕は喉がかわいたよ」
「なら戻ってなんか飲めば?」
「優也くんも一緒に飲もうよ」
「オレは喉かわいてないし」
「じゃあ僕もいらない」
「はぁ?」

 顰めっ面の優也とは対照的に、月野はにこにこと笑顔を浮かべていた。優也は小さく溜息をつく。

「……オレは戻んないからな。郵便局にも……あの家にも」
「ええ。戻りたくなるまでここにいればいいと思いますよ」
「は?」
「その代わり僕も一緒に居ます。だって、一人はさみしいでしょ?」

 顰めっ面から困惑したような顔になった優也が月野を見て溜息と同時に言葉を漏らす。

「……月野さんって変な人」
「それは褒め言葉として受け取っておきましょう」

 優也はじっと地面を見つめる。風に揺らされ、ススキが騒めく音だけが響いていた。

「……本当は」

 それは、気を付けなければ聞き逃してしまいそうな声量だった。

「あの手紙。母さんが書いたっていうのは、なんとなくだけど分かってたんだ。……ただ認めたくなくて。だって認めちゃったらオレ、どうしたらいいかわかんなくなる。父さんが母さんを今でも大切に想ってることだって、特別に想ってることだって本当はちゃんと知ってた。死人みたいに生きてた父さんがあの人と一緒にいるようになって笑えるようになったのも、再婚について悩みに悩んでたことも本当はずっと気付いてた。父さんだってずっと悩んでたこと、知ってたは知ってたんだけどさ……」

 月野の隣はひどく居心地が良かった。心に刺さっていた棘が抜け落ちていくような、そんな不思議な感覚に、優也はポロポロと本音を漏らす。

「わかって……るんだ。オレだって……ちゃんと」

 喉の奥から振り絞るような声が響く。

「あーあ。あの人が悪い人だったら良かったのに。父さんがいなくなった途端オレに意地悪するとか暴力振るうとか、金目当ての猫被り女だったら良かったんだ。そうすればオレはこんなに苦しまない。おもいっきり反対出来たんだ。なのに、なのにあの人は……。オレが嫌な態度とっても笑ってるし、反抗すれば謝ってくるし、父さんがいなくなってもオレに優しくしてくるし、どんなに理不尽な態度取っても怒んないし!」
「ええ」
「この前わざと手料理食べなかった時も、ただ笑ってごめんねって謝ってきたんだぜ!? あの人なんも悪いことしてないのに!! それもまた腹立つし!! これがオレの我儘だってことも……わかってるんだ。あの人が父さんのこと本気で好きなことだって、ちゃんと。……でも!! でもそしたら母さんは!? 母さんの気持ちはどうなる!? ……そう思ってオレは今まで反発してきた。なのに……母さんが認めてるんだったら、むしろそれを望んでるんだったら、」

 ぐす、と鼻をすする音がした。

「……オレ、もうどうしたらいいかわかんねぇよぉ……」

 ひっ、くっ、と噛みしめるような嗚咽を漏らしながら優也は泣き出した。

「君のその優しさはきっとご両親に似たんでしょうね」
「似てねーよ。本当に優しいならこんな風に反抗したりしないだろ」
「いいえ。君は心の優しい素直な子です。そうやって一人悩みを抱えて葛藤している。それも自分のためじゃなく、両親と静香さんのために」

 温かい手のひらが優也の頭をゆっくりと撫でる。

「一人で抱えるのは辛かったでしょう? よく頑張りましたね。でも、たまにはこうやって素直に吐き出していいんですよ。あなたはまだまだ子どもなんだから」

 優也は照れくさいのか、涙を拭いて居心地悪そうに身をよじった。

「優也くん。これを見てください」

 月野は撫でていた手をそっと離すと、懐から一通の手紙を取り出した。

「……なんだよこれ」
「天国のお母さんから優也くんに宛てた手紙です。ほんの少し前に届きました」

 優也が驚いて手紙を見やる。

「これは本物……なのか?」
「君が僕の仕事を信じてくれるかは微妙ですが、それは本当にお母さんから届いた手紙ですよ」

 月野はゆっくりとした動作で封筒を優也の手に乗せる。

 しばらく考え込むように手のひらを見つめていた優也だったが、覚悟を決めたように封筒を開け始める。丁寧に封を外すと、緊張したように紙を広げた。


優也へ

久しぶり! 母さんがいなくなって暫く経ちますが、優也は元気にしてますか? 天国の人はみんな優しくて、母さんはとっても元気に過ごしています。こっちから毎日二人を見てるけど、優也は父さんにだいぶ反抗してるわね。父さんすごく悩んでるみたい。その原因は母さんにあるから、二人には申し訳ないと思ってるわ。

父さんが見せたあの手紙ね、あれ、本当に母さんが書いた手紙なのよ。いない人間にいつまでも縛られた人生じゃ父さんが可哀想だと思って、こっちに来る前に書いておいたの。父さんが母さんのこと大切に思ってくれてるのは、分かってる。あ、もちろん優也が母さんのこと大切に思ってくれてるのも分かってるわよ? だからこそあんなに反対してくれたんだもの。母さんは本当に嬉しかった。

でもね、あなた達は〝生きてる人間〟なの。〝死んだ人間(わたし)〟に縛られるのは良くないわ。本当はわたしがずっとそばに居られれば良かったんだけど、それは無理だったから。だからこそ、もっと自由に生きてほしいのよ。

実は静香さんね、母さんに手紙くれてたの。母さんが死んで、彼女が父さんに告白した時ぐらいから、ずっと。いないわたしに気なんか使わなくて良いのにね。律儀っていうか真面目っていうか。そうだ。わたし達の手紙、何通か同封しておいたから後で読んでみてね。

二人が付き合うってなった時、良かったなって思ったの。本当よ? でもね、やっぱり母さんも父さんのこと好きだから、静香さんに嫉妬したりしちゃって。

でも、静香さんの手紙に書いてあったの。

『和也さんの一番になりたいだなんて、ましてや透子さんの代わりになるなんておこがましいことは言いません。ただ、和也さんがそっちに行くまでの間。その間だけでいいので、彼を支える役目を私にさせてください。優也くんのこと、守らせてください。二人のこと、絶対幸せにしますから』って。

本当は和也の一番になりたいんだろうなってことはすぐに分かったわ。でもね、二人を幸せにしたいっていう強い気持ちは伝わってきた。とても真っ直ぐな気持ちがね。だから、あー……この人になら和也と優也を任せてもいいかなって、そう思えたのよ。それにほら、彼女を好きになっても、父さんが母さんを好きな事は変わらないから。

だから母さん平気よ。

何度も言うけど、優也が母さんの気持ちを考えて、一生懸命になってくれて、すごくすごく嬉しかった。さすがわたしと父さんの自慢の息子。優しい男の子に育ってくれて、その成長を見れて母さんは十分幸せです。

だから優也も自分の気持ちに素直になっていいんだよ。大丈夫。優也が母さんのこと大好きだっていうのは言わなくても分かってるから。

だから、静香さんに甘えたっていいんだよ。

いっぱい我慢させちゃったね。ごめんね。それに、母さんは何があったって父さんと優也のことが大好きだから安心しなさいね。母さんはこれからもみんなの幸せを願って天国から見守ってるからね。じゃあ、また。


母さんより


「うわ……全部見透かされてる」

 優也は同封された手紙を広げる。そこには見覚えある懐かしい字と、見たことのない綺麗な字がたくさん並んでいた。


〝優也の好物はハンバーグです。特に、中にチーズを入れたものが大好物だから、何かのご褒美の時はそれを作ってあげて下さい。きっと喜びます〟

〝ありがとうございます。優也くんが食べてくれるかわかりませんが、今度作ってみます。和也さんと優也くん、今日も元気に学校に行きました。安心してくださいね〟

〝和也も優也も元気そうで良かった。静香さんのおかげです。ありがとう。優也はきっと今、自分の心と葛藤してると思うの。だから整理がつくまで待ってあげてね。本当は優しい子だから〟

〝今日、優也くんは体育の時間に転んで膝を擦りむいたようです。傷の手当てをしようとしたけど拒否されてしまいました。心配だったので消毒液とガーゼとテーピングを机の上に置いて来たんですが、やっぱり迷惑だったかな。一応和也さんには伝えておいたのですが……頼りなくてすみません。〟

〝大丈夫よ。子供に怪我は付き物だからね。頼りないなんて思ってないから、気にしないで〟


「……なんだよこれ。オレと父さんのことしか書いてないじゃん。しかも恥ずかしいことばっか」

 優也は目をこすりながらクスリと笑う。すると、遠くの方からドタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。

「優也!!」
「ゆーやん!!」

 流れる汗を拭うこともせず、肩を上下させた大の大人二人は大声で優也の名前を叫ぶ。優也の姿を確認すると、二人は両目から涙を流した。

「……優也!!」
「ううっ、ゆうやーん! 心配したんスよー!」

 和也は優也の両手をぎゅっと包み込むように握る。

「……ごめん、ごめんな優也。やっぱり嫌だったよな。お前の気持ちも考えずに、本当にごめんな」
「別に……謝んなくていい。……オレもちょっとムキになってたから……その、ごめん」
「……優也」
「天国の母さんから、オレ宛に手紙が届いたんだ。さっき月野さんからもらった」
「て……がみ? 透子から?」

 和也の手からするりと力が抜ける。

「母さん、オレと父さんのこと心配してた。でも、母さんは何があってもオレと父さんのこと大好きだから安心してって。ほら、これ」
「透子からの、手紙……」

 和也は宝物にでも触れるように、その手紙をゆっくりと受け取った。

「……透子に書いた手紙は何百通とあるのに、どれも出すことが出来ませんでした。俺にはこの郵便局を見つける事が出来なかったから」
「月の光がうちに案内しなかったのは、あなたの気持ちがちゃんと届いていたからだと思います。だからあなた(・・・)がうちに来る必要はなかったんです。だって、代わりに透子さんと静香さんが手紙のやりとりをしていたみたいですから」
「あの二人が手紙を!?」
「ええ」
「そうだったんですか……」

 どこか納得したように、和也はひとつ頷いた。

「ところで和也さん」
「はい」
「せっかく来たんですからあなたも手紙を書いてみませんか? ずっと届けたかったんでしょう? 天国にいる、透子さんに」

 月野は人当たりのいい笑顔を浮かべながら、愛用の万年筆を差し出した。