「坂本先輩ですよね?」

 彼女にそう話しかけられたのは、しばらく経ってからだった。去年の春にやって来た、学校司書の女性。

 抜け殻のような俺の様子に腫れ物扱いしていた周囲とは違い、彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。

「私、深沢静香です。先輩はご存知ないかもしれませんが、同じ大学に通っていて……よく、図書館に居るのを見てました」

 そう言われてふとあの頃の記憶が蘇る。図書館にはほぼ毎日通っていた。たまに透子と二人で行ったりもしたけれど、基本は俺一人で行ってたなぁ。そういえば、いつも一番奥の席に座って本を読んでいた女の子がいたっけ。

「もしかして、いっつも一番奥の席に座ってた子?」

 俺がそう言うと、彼女の表情が明るくなる。

「そ、そうです! まさか知っててくれたなんて……!」

 顔を真っ赤にしながら話す彼女の姿がなんだか可愛く思えて、ほんの少しだけ透子の姿と重なって胸が苦しくなった。

 彼女はそんな俺を再び真っ直ぐ見つめると、力強い口調で言った。

「私、先輩のこと大学の時からずっと好きでした」

 ……は? 驚きすぎて何も反応出来ない。いや、当たり前だろ。

「こんな時に何言ってんだとか、不謹慎だ、非常識だ、弱みに付け込む気か、卑怯者めとか、私を非難する気持ちはわかります。ほとんど初対面の人間にこんなこと言われても迷惑だってこともちゃんと理解してるつもりです」

 彼女は淡々と語り出す。

「でも私、もう後悔するの嫌なんです」

 その一言にはっと息を呑んだ。

「私、学生時代、ずっと先輩のことが好きでした。でも、先輩にはその頃から彼女がいた。ずっとずっと、私の知らない時からずっと隣には透子先輩がいた。先輩たちは本当にお似合いで、だから私は諦めました。でも、簡単に諦めた事、ずっと後悔してたんです。せめて気持ちだけでも伝えておけばって、何度も何度も思った。透子先輩には……いいえ、奥さんには、当時から敵うわけないってわかってました。だけど私だって、先輩のことこんなに好きなのにって悔しかった。だから、不謹慎だと思われようと、このタイミングを逃したら、私は一生言えない気がするから」

 静香は大きく息を吸った。

「坂本和也さん。あなたが好きです」





 彼女に初めて告白された時、俺はすぐに断った。そんな俺に彼女、深沢さんは真っ直ぐな目で言った。

「別に先輩とどうこうなろうなんて思ってません。ただ、なんていうか、透子先輩以外の人からも、坂本和也はこんなに大事に想われてるんだってこと、知って欲しかったんです」

 そう言うと深沢さんは覚悟を決めたように拳を握った。

「私、簡単には諦めません。いつか必ず、先輩のこと幸せにさせてみせますから。これは宣戦布告です」

 彼女は背を向けて歩き出す。諦めないって言われてもなぁ。独りごちて頭をかく。

 報われない恋をされても、正直困ってしまう。

 俺の気持ちは全部透子のものだし、この先それが揺らぐことは決してないから。

 透子には悪いけど、俺は約束を守らず生涯を一人で過ごすつもりだ。だって、どうしたって透子以外は好きになれないのだから。

 あの子にはやっぱり諦めてもらうしかないな。

 この時の俺は本気でそう思ってたんだ。





 彼女から二回目の告白をされたのは、頬をかすめる風が冷たく感じてくる頃だった。

 宣戦布告をされたものの、彼女は特に強烈なアピールをしてくるわけでもなく、告白する前と変わらない態度で接してきた。正直ちょっと拍子抜けだ。ただ、ふとした時にそばに居たり、困ったことがあるとすぐに気付いて声をかけてくれたり。変化といえばそれぐらいだった。

「坂本先輩、好きです」

 翌日の授業の資料を探しに、図書室で二人になった時だった。下校時刻をとっくに過ぎた校内は本当に静かで、物音一つしない。

「……また君は。突然だね」
「いえ。常々思ってたことですから」

 俺はため息をつきたいのをぐっと堪える。

「前にも言った通り、俺は今後誰とも付き合う気はないよ。俺は透子が好きだから」
「そんなこと言われなくても知ってますよ。私が伝えたくなっただけなので気にしないでください」
「……ええと」
「だって先輩、言わなきゃ私のことなんてすぐ忘れちゃうでしょ?」

 俺は何も言い返せなかった。悲しさを隠して笑う彼女の顔が、何故か透子と重なって見えた。





 気付けば深沢さんがそばにいることに戸惑いを感じなくなった。それどころか、いないと自ら探してしまうほどになっていた。

 ……これは、まずいな。

 自分の気持ちの変化に戸惑いを覚えたのはいつだっただろう。俺は確かに透子が好きだ。一番好きだ。それは本当に変わらない。

 でも……目の前で笑顔を見せる彼女が気になっているのも、最低なことに事実なのだ。

 告白された回数が両手じゃ足りなくなってきた頃。やけに真剣な顔をした深沢さんが真っ直ぐに俺を見て言った。

「坂本和也さん。あなたが好きです」

 いつもならここで終わる告白に、初めて言葉が続けられた。

「私と……私と付き合ってくれませんか?」

 泣き出しそうなのをぐっと堪え、彼女は俺を見続ける。ああ、俺は彼女のこの目に弱い。明確な意思を持った、純粋で真っ直ぐなこの目が。

「……透子に言われてたんだ。自分がいなくなったら誰か良い人見付けて幸せになれって」
「……え?」
「でも俺は……どうしたって透子の事が好きだ。俺の心に居るのは今までもこれからも透子以外にはあり得ない。……でも……自分でも驚いてるんだけど、深沢さんに惹かれている部分もある」
「っ!」
「……こんな男でごめんな」
「いいんです。私は最初から一番なんて望んでませんから」
「え?」
「言ったでしょ。私、わかってるんです。先輩の気持ち全部はいらない。いつだって先輩の一番は透子さんのものだから。ただ、その中のほんの少しだけ好きって気持ちを分けてくれれば。私はそれで満足なんです」

 すぅ、と小さく息を吸う動きがスローモーションのように見えた。

「好きです。坂本和也さん。だから、あなたの心を少しだけ分けてくれませんか? あなたが透子さんの所に行くまで、その時まででいいですから、私をそばに置いてくれませんか?」

 気付けば俺は彼女を抱きしめていた。初めて触れたその体は小さくて柔らかい。当たり前だが、透子とは違う感触だ。

「……君は馬鹿だね。こんな男を何年も好きだなんて、人生を棒に振る気か?」
「先輩と一緒に居られるなら喜んで振ってやりますよ」
「ははっ。無謀っつーか、頼もしいっつーか」
「それより先輩、早く離れて下さい。私、こんなことされたら期待しちゃいますから……」
「うん」
「いや、うんじゃなくて。断るなら離れ、」
「断る気がないなら、離れなくていいんだよね?」

 彼女は驚いたように肩を跳ね上げる。

「……先輩じゃなくてさ、名前で呼んでよ」
「い、いいんですか?」
「俺の気が変わらないうちに、早く」
「…………か、ずや、さん」

 小さく背中に回された腕が、ずいぶんと温かく感じた。