昼休みや仕事終わりに病室に来るのはもはや日課になっていた。

「よっ!」

 ベッドから上半身を起こして静かに文庫本を読んでいた透子がぱっと顔を上げる。

「和くん。今日も来てくれたの?」
「当たり前だろ。透子に会わないなんて無理。透子不足で動けなくなるから」
「あ、エスポワールの紙袋だ! ちょうど甘い物食べたかったのー! さっすが和くん早く開けて!」
「お前……色気より食い気かよ。まぁいいけど」

 和也はガサガサと紙袋から箱を取り出す。中身は透子の好きなマドレーヌだ。箱に付いているシールを取ろうと四苦八苦する背中をじっと見つめながら、透子は小さく口を開いた。

「今日の昼間にね、母さんと優也が来てくれたの」
「うん」
「優也、おっきくなったね」
「そうか? 背の順は前から七番目っていう微妙な位置だからもっとデカくなりたいって騒いでるぞ?」
「ううん、おっきくなったよ。ちょっと見ないうちに身長も伸びて、顔つきもなんだか違ってた。子供の成長って早いのね」
「まぁ……確かにな」
「きっとこれからどんどん大きくなって、あっという間に身長も抜かされて、声も低くなって反抗期なんか迎えちゃうんだろうね。そのうち彼女とか出来てさ、家に連れて来ちゃったり。……わたしも、ずっとそばで優也の成長見たかったなぁ」
「……見れるだろ。退院すれば、いくらでも」

 和也の言葉に透子は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。和也の背中にひんやりとした汗が流れる。

 言い様のない不安がぐるぐると渦巻く中、透子はにこりと笑った。

「ねぇ和くん。わたしがいなくなったら新しい彼女(ひと)を見つけて幸せになってね」
「はぁ!? おまっ! なに言ってんだよ! そんなこと冗談でも言うなって!」
「冗談じゃないよ。わたし、ずっとそう思ってたの。わたしがいなくなったら、和くんには残りの人生幸せに過ごしてほしいなって」
「透子!」

 透子は笑顔のままで言った。

「……ごめんね和くん。わたし、もう長くないみたい」

 息が出来なくなった。思考回路もぷっつりと切れてしまい、何も考えられない。透子の言葉だけが真っ黒な脳内をぐるぐると回っている。

「……う、そだ」

 ようやく絞り出した声は情けないほど小さくて、かすれていた。

「残念ながら嘘じゃないんだなぁ」
「なん、だよ。いつもより入院長引いてるからか? そんな弱気になんなよ、今までだってちゃんと、」
「ううん、もう限界みたいなの。自分の体のことは自分が一番理解してるつもり」
「ふざけんな! 俺はそんなの信じないからな!!」
「現実逃避は良くないよ和くん。しっかり向き合わなきゃ」

 透子は淡々と答える。和也はギリッと奥歯を噛み締めた。

「なんで……なんでお前はそんなに冷静なんだよっ」
「なんでだろうね。死ぬのはもちろん嫌だけど、今までが幸せだったから割と覚悟は出来てるっていうか」

 透子は和也の目をじっと見つめる。

「ねぇ、だから約束して。わたしがいなくなったら誰か素敵な女性を見つけるって。それで優也とその人と幸せに過ごすって」
「……そんな人いらない。俺が好きなのは一生透子だけだ。他の奴なんかどうでもいい。俺は透子と優也さえいれば、それで十分だ」
「ふふっ嬉しいなぁ。わたしももちろん和くんだけが好きだよ。和くん以外の人には興味もない」
「なら分かるだろ! 他に好きな奴なんか出来るわけないって! 今までだってずっとそうだった!!」

 大声で叫ぶ和也に、透子は言い聞かせるように優しく続ける。

「うん。でもね、わたしがいないのに、わたしを想って一人でいるのはダメだよ。優也だっていつかは離れていくんだから。そしたら和くん一人ぼっちになっちゃうでしょ? たった一人でわたしの思い出だけと過ごすなんて、そんなの心配すぎる。だって、思い出の中のわたしはあなたに何もしてあげられないんだから」
「……透子」
「だから、和くんが生きてるうちは……貴方の支えになってくれる人と一緒になって。残りの人生を幸せに過ごして。これはわたしのお願いよ。和也の残りの人生を自由に、そして幸せに過ごしてほしいの。無理に好きにならなくていい。だけどきっと、和也のこと幸せにしてくれる人がいるはずだから」

 透子の目に涙の膜が出来た。それはキラキラと輝いていて、ひどく儚い。

「その代わり、和也が天国に来たら。その時はまたわたしと一緒に居てよ。もちろん夫婦としてさ」
「……そんなの当たり前だろ。今も昔も、いつだって俺たちは結ばれる運命なんだよ」
「ふふっ、和くんありがと!」

 出来ることなら透子と離れる日なんて来ませんように。非力な俺は神様に祈ることしか出来なかった。





 それから半年後、透子はいなくなった。俺に宛てた手紙を一通だけ残して。


坂本和也様

和くんに手紙を書くのは何年振りかな? 改めて書くとなんだか恥ずかしいね。

さて。わたしが天国へと旅立って、和也も優也もさぞかし悲しんでることでしょう。正直、涙腺ゆるゆるの二人が号泣してる姿が目に浮かんでます(笑)

泣いてくれるのはありがたいけどあんまり泣きすぎちゃダメだよ。悲しみを乗り越えてこそ人間は成長するんだからね。俺の屍を越えて行けってやつです。あれ? ちょっと違う?

あのね、前に和くんに、俺が好きなのは一生透子だけだって言われた時、すごくすごく嬉しかったの。わたし愛されてるなーって。和くんのこと好きになって良かったなーって。心の底から思ったの。ありがとう、わたしを好きになってくれて。幸せにしてくれて、本当にありがとう。

〝わたしじゃない人を好きになって〟なんて。自惚れじゃなければわたし、和くんにとても残酷なこと言ったかもしれない。でもきっと、和くんがわたしの立場なら同じこと言ったと思うんだ。……本音を言えば、和くんのことは誰にも渡したくないよ。だってわたしも和くんが大好きだから。でも、だからこそ。和くんには残りの人生を幸せに過ごしてほしいの。和くんならわたしの気持ち、きっと分かってくれると思います。だからこないだ言ったことちゃんと守ってね。和くんの最期が孤独死なんて絶対に許さないから。和くんと優也が笑顔になれる人と幸せになって。

でもね、一つだけわがままを言わせてもらうと、わたしのことはずっとずっと好きでいてほしいの。あなたの心の片隅でいいから、わたしの居場所を取っておいてほしい。わがままでごめんね。

和也に出会えてわたしは本当に幸せでした。優也のことよろしくね。親子喧嘩はほどほどにね。あと、健康に気を付けてね。夜は早く寝てね。あんまり仕事頑張りすぎないでね。毎日笑って過ごしてね。二人のこと、天国から見守っています。

じゃあ、和也がいつかこっちに来るその日まで。またね。

坂本透子


追伸:和くんが再婚とか言ったらわたしのこと大好きな優也がめちゃくちゃ反対するかもしれないから、一応書いておくね。困ったらこれ見せて。じゃ、今度こそバイバイ。またね。

 手紙の最後の一枚には、大きな字で〝お父さんの再婚を許してあげてね 透子〟という文章が書かれていた。

 こんなの使うわけないだろ、バカ透子。

 俺は静かに涙を流しながら、その手紙を机の引き出しにしまった。

 透子への手紙は何十通も書いているのに、届ける(すべ)が見つからない。結局それはゴミ箱行きになってしまうのだが、俺は書かずにはいられなかった。