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春、美菜は元気な女の子を産んだ。
なかなかの難産だったが、母子共に無事で何よりだった。よく頑張ったね、偉いよ。そう声をかけると美菜は嬉しそうにふにゃりと笑った。
迎えは、まだ来ない。
「お母さん。あたしね、この子に桜って付けようと思うの」
「桜? かわいい名前だね」
「うん。入院中ずっと考えてたんだ。あたしの大事な人の名前を全部入れたいなって思ったんだけど、実際は無理でしょ? だからね、みんなの名前を取って繋げて、意味のある文章にしたらどうかなって」
「意味のある文章? なんだいそれ?」
「春子の春、太陽はそのまま太陽、輝喜の輝、あたしの美。で、それに〝桜〟を足して繋げると……」
──春の太陽に輝く美しい桜
「ね? みんな繋がってるの。例え会えなくても遠くにいても、みんな確かに繋がってるのよ。こうすれば、みんなが桜を愛してるって伝わるんじゃないかなって思って」
「さすがアタシの娘だ。いいセンスしてる」
「ふふっ。でしょ?」
ああどうか、この二人の未来が幸せなものでありますように。春子はそう神に祈らずにはいられなかった。
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桜は元気にすくすくと育ち、来年からは幼稚園に入る。美菜は生活費と入学費を稼ぐため、働きっぱなしの毎日だった。
「さくら~良い子にしてるのよ~」
「……美菜。アンタ顔色悪いけど大丈夫かい?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから」
「あんまり無理しないで。ひとつくらい仕事辞めてもいいんじゃないかい?」
「ダメよ! 来年からは幼稚園だし、小学校に入ったらもっともっとお金かかるんだからね。輝喜が来るまではあたしが頑張らないと! っと。もう行かなきゃ遅刻しちゃう。じゃあ、桜をよろしくね!」
一回り小さくなった背中を眉尻を下げながら見つめる。早朝のビル清掃、建設業者の事務、深夜のコンビニバイト、内職のシール貼り。最近の美菜は明らかに無理をしすぎていて、体調が心配だ。目の下のクマは酷いし、食欲もない。……何もなければいいんだけど。
だが、悪い予感ほど当たるものだ。
……美菜が死んだ。
それは突然の訃報だった。バイト先から連絡がきた瞬間、文字通り目の前が真っ暗になった。
過労による貧血で階段から落ちた美菜は頭を強く打って病院に運ばれたらしい。打ち所が悪かったようで、搬送先の病院で帰らぬ人となった。
何がなんだか、もう訳がわからないまま通夜も葬儀も終え、春子はすっかり抜け殻のようになってしまった。
娘が親の自分より先に死ぬなんて、一体誰が考えよう。それもこんなに突然に。あの子はまだ……まだ結婚すらしていないというのに。
胸に渦巻くのはあの男への憎しみだけ。狭い部屋の一室で美菜の写真を見ていると、とっくに枯れたはずの涙が音もなく出てきた。
「おばあちゃん? どしたの? イタイイタイしたの?」
部屋に入ってきた桜の小さな手が春子の頭をそっと撫でる。
「なんでもない。なんでもないんだよ、桜。ありがとうね」
春子は桜をぎゅっと抱きしめた。
……この子が、桜だけがアタシの希望だ。美菜が残してくれた、たったひとつの最後の希望。だから何があっても、どんなことがあっても、桜だけは守ってみせる。
春子は固く心に誓った。
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美菜が死んで半年以上過ぎた頃、あの男が家にやって来た。
時間がかかったけど海外での事業が成功してようやく両親を説得出来た、美菜と今すぐ結婚したい、と。顔を綻ばせ、息を弾ませて。
……何を言ってるんだ、この男は。
何も知らないくせに。美菜が今までどんな思いで過ごしてきたのか、どれだけ苦しかったのか、辛かったのか。子どもを一人で産んで育てるという覚悟が、どれほどのものだったか。その苦労を一ミリも知らないくせに。今頃のこのこ現れて、結婚?
カッと頭に血が上るが、出てきた声は自分のものとは思えないほど冷たく、冷静だった。
「………………美菜は死んだよ」
「……え?」
「働き詰めで無理して倒れて、そのまま」
「な、にを……」
サッと男の顔から血の気が引いた。
その狼狽える様子を見て、自分の中の何かがプツリと切れた。
「アンタのせいだ! アンタがいつまでも迎えに来ないから!! だから美菜は……!!」
「待って下さい!! どういうことですか!? 死んだって……美菜が……どうして!?」
「アンタのせいだよ!! アンタのせいで美菜はウェディングドレスも着られないまま幸せな家庭も持てないまま死んだんだ!! いつまでも来ない最低なアンタを信じて、一人で悩みを抱え込んで!! 幸せにするなんて、一生かけて幸せにするなんて、そんな出来もしない約束のせいで!! アタシが、アタシがあの時アンタの言葉を信じなければ……!!」
「そんなの……嘘だ」
「今更どのツラ下げてここに来たんだ!! さっさと帰れ!!」
「そんな……。ようやく……ようやく両親を説得出来たんだ……。今まで頑張ってきたのは全部そのためだったのに……美菜が死んだ? そんな……そんなのって……」
「アンタの顔は見たくない。もう二度と来るな!!」
大声を聞きつけたのか、後ろのドアが遠慮がちに開かれた。
「……おばあちゃん?」
「桜! 出てくるんじゃないよ! 中にお入り!!」
春子の怒鳴り声にびくっと肩を震わせると、桜は慌てて中に引っ込んだ。
輝喜は目を見開いて桜を見た後、声を震わせながら春子に問う。
「今の子は……?」
「アンタに関係ないだろ」
「関係なくない! 答えて下さい!! 今の子は、今のは誰の子なんですか!!」
「……美菜の子だよ」
「相手は……父親は誰なんです!?」
春子は固く口を閉ざす。
「もしかして……もしかして、俺の」
「ふざけるんじゃないよ!! この子は美菜の子だ!! それ以外のなんでもないよ!!」
「じゃあ父親を教えてください!! その子は、その子は俺の子なんじゃないですか!?」
「うるさい!! もういいから帰ってくれ!!」
「待って! 待って下さい!! その子がもし俺の子なら、」
「アンタ、美菜の次は桜を奪うのか!!」
春子の叫び声に、輝喜は刃物で心臓をひと突きされたような衝撃を受けた。そのままぐりぐりと抉られるような痛みが襲う。
「お願いだから……これ以上アタシから大切なものを奪わないでおくれ……頼む……頼むよ輝喜さん」
ぼろぼろと涙を流す春子の姿に、輝喜は動揺を隠しきれなかった。
いつの間にか降り出した雨が二人の体を冷たく濡らす。雨の勢いは増すばかりだった。