「娘さんを僕に下さい」

 ドラマのような台詞を恥ずかしげもなく言い放ち、深々と頭を下げた男をじっと見やる。

「……アタシは美菜が幸せになれるんならそれでいいんだけどね。アンタ、この結婚両親に反対されてるんだろ?」
「それは……!」

 ガバッと勢いよく顔を上げた男の顔には焦りの色が浮かんでいた。

 五十嵐(いがらし)輝喜(てるき)。頼りなさそうな薄っぺらい体にへらへらと笑みを浮かべる姿からは想像もつかないが、日本を代表するジュエリーブランド、IGARASHIジュエリーの跡取り息子である。

 金持ちと貧乏人が結ばれるなんてドラマや漫画じゃあるまいし、現実世界でそう簡単にいくはずがない。五十嵐の両親、特に母親はこの結婚に猛反対しているらしく、結婚はおろか友達付き合いさえも許されないのが現状だ。

「こんな状態で、アンタは美菜を幸せに出来るのかい?」
「お母さん……!」

 隣で美菜が慌てているが、彼の目だけをまっすぐ見つめる。彼もまた、春子の目をじっと見つめていた。その瞳には固い意志と熱が宿っている。

「……確かに」

 輝喜は膝の上に置いていた拳に力を込めた。

「確かに今は反対されてます。きっとこれからも、母は色々な手を使ってこの結婚を破棄させようとするでしょう」
「だったら、」
「でも俺は美菜さんじゃないとダメなんです。美菜さん以上の女性はいません。どれだけ時間がかかっても必ず母を……両親を説得しますから。認めてもらえるまでは辛い思いをさせてしまうかもしれません。だけどその分、一生を掛けて俺が美菜さんを幸せにします。絶対に幸せにすると約束します」

 それはただの甘ったれたガキの幻想だ。

 しかし、彼が美菜を想う気持ちは痛いほど伝わってきた。

「お母さん。あたしは彼の側に居られればそれだけで幸せなの。あたしも向こうの家族に認められるように努力する。だからお願い」
「遅くなるかもしれないけど待ってて下さい。俺、必ず迎えに来ますから」

 はぁ、と溜息をついて正座する二人を見る。

「だから、アタシは美菜が幸せならそれでいいって言ってるだろ」
「え?」
「美菜が幸せなら何も言わない。アンタ、約束してくれんだろ?」
「それって……」

 ポカン、と口を開けた間抜け面を見て思わず吹き出した。

「お母さん、ありがとう!」

 現実は厳しいと分かっている。だけど、あの男の言葉を信じてみたい。毎日幸せそうな笑顔であの男の話をする美菜を見てきたせいか、柄にもなくそんな事を思ってしまったのだ。





 当然、現実は甘くない。

 やはり両親を説得するのは骨が折れるらしく、たまに来る連絡は〝ごめん。もう少し待っててくれ〟という謝罪の言葉だけだった。それでも美菜はあの男を信じて今日も待っている。

「……遅い。何モタモタしてるんだろうね、あのヘタレ」
「そんな簡単にいくわけないもん。長期戦は覚悟の上だわ!」

 気丈に振る舞ってはいるが、美菜も精神的に負荷がかかっているのだろう。いつもより顔色も悪く、食も細いせいか少し痩せた気がする。

「美菜……アンタ大丈夫かい?」
「大丈夫だよ。あたしは元気だから」

 そう言って美菜は笑顔を浮かべた。

「それならいいけど……」
「あ、今日バイト終わりに寄るところあるから帰り少し遅くなるから。夕飯先に食べてていいよ」
「ああ、わかった。気を付けるんだよ」
「はーい」

 扉が閉まると、春子は静かに俯いた。娘を見守ることしか出来ない自分がもどかしくて仕方ない。





 久しぶりに我が家を訪れた男は疲れ果てた顔をしていた。説得が上手くいっていないことは一目瞭然だ。

「……実は」

 開いた口からは掠れた声が出てくる。

「……俺、海外の支店を任されることになったんだ」
「え?」
「両親に、結婚を認めてほしいなら仕事で結果を出せっていくつか条件を出されて。新しく出来る支店の責任者を任された」

 輝喜は力なく項垂れる。

「つまり、輝喜は結婚を認めてもらうために海外で仕事するってこと?」
「ああ。……正直、条件はかなり厳しい。ハイブランドの名店が並ぶフランスで業績を伸ばすこと。それを自分一人の力でやる事。根回しもガッツリされてて、関連会社からデザイナーも職人も引き抜けない状態なんだ。業界全体に母からの圧力がかかってるから契約を取るのも一苦労だし……これはもう諦めさせるための条件としか思えない」
「そんな……」

 ゆっくりと顔を上げた輝喜は静かに美菜を見つめる。

「だから美菜。……二人で、何処か遠くに逃げないか?」
「え?」
「家族も会社も肩書きも全部捨ててさ、結婚して、俺たちのこと誰も知らない場所でアパートでも借りて二人で住もう」
「それ……駆け落ち?」
「まぁ、そうなるな。でも安心しろ。俺がちゃんと働いて、」
「そんなこと出来るわけないでしょ!!」

 美菜が大きな声で叫んだ。そして、輝喜を睨むように見やる。

「何弱気になってるのよ輝喜らしくない! 無理難題を押し付けられるのは分かってたでしょ? しっかりしなさいよ! 大体、全部捨ててあたし達だけが幸せになったとして、アンタ心残りないって言える?」

 輝喜はグッと息を詰まらせた。

「あたしは心残りありまくりだよ。だって、あたしはみんなで幸せになりたいもの。みんなにちゃんと家族だって認めてほしいもの」
「美菜……」
「条件が厳しい事は分かったわ。でも、やる前から諦めないでよ。それに、もし条件がクリア出来なかったら、違う方法で認めてもらえるように二人で考えればいいし」
「……そうだよな」

 輝喜は笑みを浮かべると、喝を入れるように自分の頬をパンと叩いた。

「変なこと言ってごめん。忘れてくれ」
「ううん。あたしこそ、何も手伝ってあげられなくてごめんね」
「いいんだ。それが条件なんだしな。……俺、頑張るよ。最後まで頑張って結果出して、それから美菜を必ず迎えに来る。だから、それまで待っててくれ」
「……うん」

 美菜と約束を残して、あの男はフランスへと旅立った。





 あの男が海の向こうへ渡ってから数日。

「お母さん。実はあたしね、妊娠してるの」

 美菜は唐突に告げた。その知らせに、春子はこれでもかと大きく目を見開く。

「ほ、本当かい!?」
「うん。こないだ病院に行ってきたの。三ヶ月だって」

 美菜はお腹を撫でながら言った。

「そうかいそうかい! アイツには言ったのかい!? 言ってないならすぐに連絡を、」
「いいの!」

 美菜は春子の言葉を遮るように声を上げる。

「連絡しなくていいの。輝喜には言わないつもりだから」
「い、言わない!?」
「輝喜、今必死に頑張ってるでしょ? そんな時に子供が出来たなんて言ったら今までの努力が水の泡よ。向こうの両親に認めてもらえなくなっちゃう」
「だからなんだって言うんだい! 自分の子供だよ!? あのバカが喜ばないわけないだろ!?」
「でも、言いたくないの。今は絶対に」
「なんで…………っ!」

 春子は気付いた。

「もしかしてアンタ、こないだあの男と話した時にはもう子供がいること分かってたのかい?」

 美菜は眉尻を下げると、小さく首を縦に動かした。

「それなのに何も言わずにフランスに行かせたっていうのかい!? なんでそんな……」
「だってお義母さんにバレたら絶対に堕ろせって言われるもの! あたし、それだけは絶対に嫌なの!! だからこの子は……この子はあたしが守らなきゃ」

 ……そうか。美菜は生まれてくる子供のことを考えて、あの男との駆け落ちをやめたんだ。向こうの家族にもちゃんと孫だって、愛してほしかったから。

「あたしは正式に五十嵐家の嫁って認めてもらって、この子と一緒に堂々と嫁ぎたいの。だから輝喜にはまだ内緒。迎えに来た時のサプライズにしとく」
「美菜……」
「だから、それまでは、あたしが一人で育てるから……! ちゃんと立派に、育てるからっ!」

 震える声、肩。

「一人だなんて何馬鹿なこと言ってんだい。アタシがいるだろ」

 不安がないはずがない。当たり前だ。だって、もしあの男が迎えに来なかったら? 両親に認めてもらえなかったら?

「……お、かあ……さん」
「……ホント。バカな()だねぇ」

 その細い背中にそっと手を添える。二人並んで静かに涙を流した。