清潔な白いシャツに黒のエプロンを着けた年配の男性が、挽いたばかりの豆を使って珈琲をいれている。店内には鼻孔をくすぐる芳ばしい香りがふんわりと漂っていた。

 喫茶ムーンライト

 路地裏にひっそりと佇む、一軒の喫茶店。言われなければそこに店があるとは誰も気付かないほど存在感がない。

 その店の一番奥で、向かい合って座るひと組の男女。

 中原百合と、鈴木浩だった。

 膝に乗せた手をぎゅっと握って緊張したような百合とは対照的に、鈴木は随分と落ち着いた様子だった。

「あ、の!」
「はい」
「……鈴木浩さんですよね?」
「はい。あなたは中原百合さんですね」

 こくりと頷くと、百合は頭を下げた。

「今日は来てくれてありがとうございます。それと……髪飾り。見付けて下さってありがとうございました。本当に助かりました」
「いえいえ。大したことはしてないので気にしないで下さい」
「勝手に手紙送ったりしてすみません。不快にさせちゃったらと思うと……申し訳なくて」
「それは私も同じですから。おあいこです」
「……手紙の返事が来た時、ちょっと吃驚しちゃいました。だって、鈴木さんはきっとあたしとは会ってくれないだろうなって思ってたから」

 珈琲を運んで来たマスターは「ごゆっくり」と一礼すると、すぐにカウンターへと戻って行った。

「……正直、ここに来るかどうか、ものすごく迷いました」
「……やっぱり」
「でも、あの郵便局で話をしてるうちに気持ちの整理がついてきて。これはちゃんと向き合わなきゃいけないなと思ったんです」

 二人の他に、客の姿はなかった。店内からはゆったりとした音楽が流れる。

「森野すみれは、あたしの祖母です」
「ええ。知ってます」
「……おばあちゃんにすみれの髪飾りを贈ったのはあなたですよね?」

 鈴木は珈琲の入ったカップを持ち上げる。

「手紙にも書きましたけど、単刀直入に聞きます。……あなたはおばあちゃんの初恋の人ですか?」

 そのまま珈琲にそっと口を付けてから、鈴木は言った。

「百合さん。今、何年なのか知ってます? もし私がおばあさまの初恋の人なら、年齢が……」
「誤魔化さないで下さい」

 百合はピシャリと言った。

「向き合わなきゃって決めてここに来たんでしょ? だったらあたしに嘘つかないで。あなたの口から聞いた事、全部ちゃんと信じますから」

 その目は驚くほど真剣だった。

「……ははっ。さすがはすみれさんの孫だ」

 その目を見て、鈴木は降参とばかりに笑い声を上げる。

「……ええ、そうです。そのすみれの髪飾りを贈ったのはこの私です。彼女の初恋が私なのかはちょっと分かりませんけど、私の初恋は間違いなくすみれさんですよ」
「そう、ですか」
「しかし……こんな話よく信じようと思いましたね」
「おばあちゃんはあたしにあなたのこと話してくれてましたから。〝あたしの初恋の人は不老不死なのよ〟って。だから、もしかしたら百合も会えるかもって言って、それであの髪飾りをくれたんです」

 百合は鞄から巾着袋を取り出し、テーブルの上にそっとすみれの髪飾りを置いた。鈴木はそれを懐かしむような、愛しいものを見るような眼差しで見つめる。

「それと、これ」

 テーブルの上にすっと滑らせたのは、あの白黒写真だった。

「うわ、懐かしいな」

 写真を覗き込んだ鈴木は少し照れくさそうだ。

「ああ……。百合さんは本当にすみれさんそっくりですね」

 しみじみと言って微笑んだ。

「鈴木さんは、おばあちゃんと別れたこと後悔してないんですか?」
「……難しい質問ですね」

 鈴木は哀しそうに笑う。

「私は自分勝手な男です。彼女の為だと言いながら、本当はただ怖かっただけなんだ。彼女に置いていかれるのが。あの温もりを失ってしまうことが。だから彼女と離れる決意をした。もちろん、彼女の最期の時まで一緒にいることも考えました。でも、それはすみれさんのためにならないから」
「………………」
「後悔してないといえば嘘になるかもしれませんけど、自分の選択が間違っていたとは思ってません」
「……お互い、好きでも?」
「普通の人間同士でも、そういう事はあるでしょう?」

 そう言われて、百合は不貞腐れたように呟いた。

「……その割には未練たらたらですよね。結局この町に戻ってきてるわけだし」
「うっ……痛いとこ突いてくるなぁ」

 これには苦笑いを浮かべるしかない。

「確かに、私の我儘に付き合わせてしまった事には少なからず罪悪感を抱いてます。好きだなんて言っちゃいけなかったんだ。そうすればすみれさんは苦しい思いも悲しい思いもしなくて済んだのに……」
「いえ、それは違います」

 思いの(ほか)力強く返ってきた返答に、鈴木は思わず顔を上げた。

「それだけは本当にないです。おばあちゃんはあなたに好きって言われて、苦しいとか悲しいとかそんな風に思った事は一度もないと思います。そんな風に考えるのは、あなたを好きになったおばあちゃんの気持ちを否定するのと同じです」
「……百合さん」
「だって、おばあちゃんが悲しい思いをしてたならあんなに嬉しそうに思い出話したりしない。すみれの髪飾りを大事に取っておくはずない。こんな風にあたしにお願いしたりしない」

 百合は黄ばんだ細長い紙をテーブルの上にそっと置いた。

「この写真が入っていた封筒と一緒に、預かっててほしいって頼まれたものです」

 鈴木は首を傾げる。

「……これは?」
「あなたと別れた日、神社のお祭りでおばあちゃんが願い事を書いた短冊です」

 はっとしてその紙を見ると、鈴木はそのまま固まった。

「受け取って下さい」

 おそらく、彼の中で色々な気持ちがごちゃ混ぜになっているのだろう。

 暫く間を置いてごくりと生唾を飲み込むと、その紙にゆっくり手を伸ばした。

 一文字一文字を頭に刻み込むかのように、丁寧に目を動かしながら、短冊の願い事を読み進める。


〝あなたはいつも自分は誰も幸せに出来ないと嘆いていたけれど、あなたと出会えて私は心の底から幸せでした。
どうか、これからの彼の人生に幸多からんことを〟


 鈴木の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。透明で純粋な、美しい涙だ。


〝あたしの代わりに持ってて頂戴。いつか百合も会えるかもしれないから。あたしの初恋の人に〟


「そして、もし初恋の人に会ったら聞いておいてねって言われてたことがあって」


〝そうね、その時は──〟


 百合は小さく息を吸って、鈴木の目を見て微笑んだ。


「〝ご飯ちゃんと食べてる? だめよ、ちゃんと食べなきゃ。もやしっ子って言われてバカにされちゃうんだから〟って」


 鈴木は何を言われたのかまだよく理解出来ていないのか、ポカンとした顔のまま数秒動きが止まっていた。そして思考回路が繋がった瞬間、一気に笑い出す。

「あっははははははは!」

 ……なんだそれ。

 まるで出会った時と同じじゃないか。大きな笑い声を上げながら、鈴木は片手で熱くなった目元を覆った。

「くくっ、あー……おかしい」
「これ、会ったら絶対言ってくれって念押しされてたんですよ?」
「ははっ、そうなんだ?」
「もっと他に言う事あるんじゃないの? って思ったんですけどね」
「いやいや十分。まったく……すみれさんには本当に敵わないなぁ」

 鈴木の表情を見て、百合もクスリと笑った。

「それと、あたしから一つお願いがあるんですけど……」

 百合はテーブルに置いたすみれの髪飾りをすっと動かして、鈴木の前に寄せた。

「これは鈴木さんがおばあちゃんにあげたすみれの花の髪飾りです」
「ええ、そうですね」
「これをおばあちゃんの所に送ってあげてほしいんです。この髪飾りはおばあちゃんの大事なものだから、やっぱり持ち主に返してあげないと」

 鈴木は髪飾りと百合の顔を見比べる。

「でも、すみれさんはもう……」

 数年前に亡くなっていると聞いた。自分たちとはもう会えない場所に居るのだ。そこに髪飾りを送れと言われても、どうすれば……。

「届ける方法は、あなたも知ってるでしょ?」

 百合の言葉に、鈴木の頭にはパッと月野郵便局の面々が浮かんだ。……なるほど確かに。彼らなら例え亡くなった人の所でも届けてくれるに違いない。

 だってあの郵便局は、我々の想いを運んでくれる特別な場所なのだから。

「ちなみに、今の質問の答えはちゃんとおばあちゃんに教えてやって下さい。もちろんこの髪飾りと一緒にね」

 二人はお互いに顔を見合わせると、声を出して笑いあった。

 それから時間の許す限り、二人はすみれとの思い出話に花を咲かせた。鈴木は彼女との出会いから別れを語り、百合は自分が産まれてからのすみれの様子を事細かに語る。

 時には笑い、時には涙ぐみながら、彼女と出会った半年間と、その後の会えなかった月日を埋めていく。

「その短冊、鈴木さんにあげます。あたしは預かっててくれって頼まれただけですし」

 テーブルの上に置いてある短冊を指差して、百合は言った。

「……でも」
「六十年前のおばあちゃんの気持ちが込めてある短冊ですから。鈴木さんが持ってて下さい。その方がおばあちゃん喜びます」
「……ありがとう。大切にしますね」

 鈴木は百合の目をしっかりと見る。

「百合さん」

 名前を呼ばれた彼女は何かを察したのか、姿勢を正してその目を見つめ返した。

「私は今日、この町を出て行きます。そして、ここにはもう二度と来ません」
「そう……ですか。残念です」

 百合の顔は曇った。鈴木は優しい眼差しで百合を見つめると、ふわりと笑った。

「百合さん。最後にあなたに会えて良かった。ありがとう」
「あ、あたしもっ! あたしも鈴木さんに会えて良かったです! ありがとうございました」

 百合は込み上げてくる涙を堪えて無理やり笑顔を作った。

 くしゃりと歪んだその顔はとてもじゃないけど人に見せられるようなものではないだろう。

 でも、それでも。例え不細工な顔をしてようが、百合はどうしても鈴木に笑顔の自分を覚えていてほしかったのだ。おばあちゃんによく似た、自分の笑った顔を。

 喫茶店を出ると、二人はそれぞれ別の方向へ歩き出す。

 その背中は一度も振り返る事なく、どんどん距離を開けていった。

 鈴木は百合から貰った短冊を見ながら、独り言を呟く。

「……しかし同じ事を書いていたとはね」


 人で賑わう神社の境内。

 歩く度にカラコロと鳴る下駄の音。

 食欲を刺激する出店の匂い。

 シュワシュワと弾けるラムネの泡。

 風に揺れる、無数の短冊。

 それらの光景が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。

 あの時、神社のお祭りで鈴木が書いた願い事。



〝これからの彼女の人生が幸せでありますように〟



 鈴木はふと笑みをこぼし、月明かりが照らす夜道をゆっくりと歩き出した。