「お待たせ致しました。エスプレッソとオリジナルブレンドでございます」

 助け舟の如く現れた姉は、ニコニコと笑いながらテーブルにカップを並べる。俺と八神さんの前に置かれたのは当店最安値、二百八十円のオリジナルブレンド、つまりブラックコーヒーだ。

 店の名誉のために言っておくが、安いと言ってもちゃんとこだわりがあって、うちの場合は香りの良いブルーマウンテンをベースに数種類の豆を焙煎してブレンドしている。安く提供出来るのは「お客様に美味しい珈琲を少しでも低価格で」という親父の信念に基づいた仕入れ先との粘り強い交渉の成果だ。なので、値段は安くても味にはかなりの自信がある。

 八神さんはテーブルの隅に置いてある小さな陶器の蓋を開け、シュガートングを使って中から角砂糖を取り出した。それをカップへ一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……まだ入れるのかと突っ込みたくなる合計八つの角砂糖とミルク二杯を入れると、ウキウキしながらスプーンでぐるぐるとかき混ぜ、満足そうに口を付けた。

 おお……相変わらず見てるだけで口の中が甘だるくなってくる。俺の眉間には自然とシワが寄った。

 この、一口で糖尿になってしまいそうなとんでもない糖分を配合した飲み物は八神スペシャルブレンド、通称「糖分の化物(シュガーモンスター)」である。本人いわく血糖値をあげるためらしいが、それはただの口実で実際はただの甘党なのだ。これじゃせっかくこだわって淹れた珈琲の味なんて一ミリもわからないだろう。バリスタ泣かせである。ほら、隣で姉も俺と同じような顔で八神さんの手元を見ているし。

「……飲む?」
「飲みません」

 何を勘違いしたのか、八神さんは俺に自分のカップを差し出して小首を傾げながら言った。女子か。あざとい系女子の可愛い仕草アピールか。言っとくけど俺はアラサーの男を可愛いとは思えないからな!

「嫌われる……愛理に……嫌われる……嫌われる……嫌われ……死?」

 前からは呪文のような呟きがぶつぶつと聞こえてきて、俺は盛大な溜息をついた。

 ……まったく。八神さんといい芳賀さんといい、どうして俺の周りの大人は変な奴しかいないんだろう。泣きたくなってくる。

「……すいません芳賀さん。嫌われないと思いますから、先を話してくれませんか?」
「えっ、嫌われない!? 本当に!?」
「はい」
「良かった!! 本当に良かった!!」

 水を得た魚のように元気を取り戻した芳賀さんが話を続けた。

「そうそう。それでね、仕方ないからGPS機能をフル活用して愛理の居場所を突き止めたんだけど」

 いやいやいやいやちょっと待て。仕方ないからって何? いくらなんでもやりすぎだろう。これじゃ親子なのに完全なるストーカーである。ていうか学校に携帯持ってっていいのか小学生。俺の時はダメだったけど……時代は変わったなぁ。

「ほらここ。見える? 地図によるとここに寄ってるみたいなんだよね」

 スマホの画面に映っていたのは地図アプリだった。対象者の位置を示しているのであろう赤いピンの上には「緑ヶ丘市立図書館」という文字が並んでいる。

「……図書館?」
「ああ! 学校の帰り道にある市立図書館なんだけどね、愛理は毎日ここに寄り道してるみたいなんだよ」
「なんだ。図書館なら安心じゃないですか。本読んでるから遅くなってるんでしょ?」
「はぁ!? 安心なわけねーだろクソガキが!! 俺は小説家なの! 本ならうちに腐る程あるんだよ!! ハウスに帰れば読み放題! 図書館に行く必要なんてないの! アンダースタンッ!?」

 どこでスイッチが押されたのか芳賀さんは突然ヤンキーのように口調が荒くなり、しまいにはルー大柴のような英語交じりの日本語になった。俺はその勢いに気圧されたじろぐ。

「で、でも、読みたい種類の本がないとか、」
「愛理が欲しいって言ったものは全て買い与えてる!! 無いものなんてない!!」

 こんの典型的な親バカめ。俺は愛理ちゃんが将来とんでもないワガママ女に育たないか心配で仕方ない。

「ええと……本を読む以外にも宿題してるとか読み聞かせを見に行ってるとか、図書館の利用法は他にもあるでしょ?」
「じゃあなんで隠すわけ!? 普通に図書館行くなら言えばいいじゃん!! 隠す必要なくない!? 友達と遊んでるなんて嘘までついてさぁ!!」
「友達と図書館に行ってるんじゃ?」
「だとしたら隠す必要ある!?」
「それは……」
「ほらぁ! 答えられない! なんか俺に知られたくないことがあるんだよ!! 絶対に!!」

 いや、ただ単にこうやって色々言われるのがめんどくさいだけなんじゃ……?

「男かな!? もしかして男と会ってるのかな!? だったらどうしよう!? 娘さんを僕にくださいとか言われたら!! パパ普通にブン殴るけど!? 愛理は渡さん、渡さんぞ!!」
「はえーよまだ小学生だろ」
「だってうちの娘超絶かわいいじゃん! 桜子さんに似て超絶美人じゃん! モテないはずがないだろ!!」
「まぁ確かに奥さんに似てるし、将来はさぞかし美人になるだろうけど……」
「はっ!? まさか反対されることを見越して駆け落ちの計画なんて立ててるんじゃ……!?」
「だからまだ小学生でしょーが!」

 これだから妄想癖の激しい大人は困る。いや、小説家としてはいい傾向なのかもしれないけど。

「とにかくさ~俺はうちの娘が心配なんだよ~。逢い引きじゃなくても変な男に目付けられたりとか誘拐とか……ほら、世の中かなり物騒だからさ~。頼むよ八神くん。ちょっと調べてみてくれよ~」
「いやいや、あのねぇ、」
「分かりました。調べてみましょう」
「えっ!?」
「本当かい!? ありがとう八神くん! 恩にきるよ!!」

 芳賀さんは八神さんの手をがっしりと握ると、引きちぎらんばかりの勢いでぶんぶんと上下に振った。八神さんの体ががくがくと揺れる。ちょ、やめろ! それ以上刺激与えたらぶっ倒れるから……!

 俺の願いが通じたのか、芳賀さんのスマホが軽快なメロディーを奏でた。画面を見た表情が引きつる。

「げっ、編集から電話だ! ……俺ちょっと急用思い出したから行くね! もしアイツが来たら今日は来てないって言っといて! じゃ!」

 言うや否や、芳賀さんは一瞬のうちに荷物をまとめ脱兎の如く喫茶店を出て行った。まったく、色々と忙しい人だ。俺は砂糖の塊を美味しそうに飲む八神さんをチラリと見て口を開く。

「……いいんですか。あんな安請け合いして。絶対ただの過保護ですよ、アレ」
「娘を心配する親の気持ちは尊重したいからね。僕で力になれるなら協力するさ。それに、」

 八神さんは青白い顔でにっこりと笑った。

「ケントくんも手伝ってくれるでしょ?」

 俺はあんたの保護者じゃねーよ! まったく。その自信は一体どこから来るのやら。……まぁ、どの道そうなるんじゃないかなとは思っていたけれど。

 俺は本日何回目か分からない溜息を深く深く吐き出した。