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 ウェストがベルトできゅっと絞られた、グレーのシフォンワンピース。普段結んでいる髪は胸元まで下ろされ、ゆるく巻いてある。さらにはアプリで真田さんから買った小さなハート型のピアス、同じく司さんから買ったピンクゴールドのネックレスを付け、綺麗に着飾った姉ちゃんは玄関に立った。

「じゃ、悪いけど夜ご飯は冷蔵庫にあるおかず温めて食べてね」
「……ウン」
「八神さんの分もあるからちゃんと持って行くこと」
「……リョウカイ」
「頼んだわよ。じゃ、行ってきまーす」
「……イッテラッシャーイ」

 七センチのヒールを履いて気合十分の姉ちゃんは、透さんとのデートに向かった。今日は帝都・グランドホテルのレストランでディナーをするらしく、それなりのドレスコードが必要なんだそうだ。……やべぇ、透さん本気じゃん。さすが宣戦布告してきただけのことあるよ。

 なんて流暢な事を考えている余裕はない。俺は迷わず八神さんの元へ向かった。

「八神さん!!」

 ぐったりとデスクに倒れ込んでいた八神さんを文字通り叩き起こす。氷点下の冬空の下で寝ていたんじゃないかと思うほど真っ白な顔色をした八神さんは今日も今日とて絶不調らしい。冬眠中の白熊のような動きでのっそりと起きると、俺と視線を合わせた。

「……おはようケンティー」
「もう夕方ですけどね」
「そうなの? 時間が経つのは早いなぁ」

 変な姿勢で寝ていたためバキバキになった体を伸ばす八神さんに向かって、俺は告げた。

「……今日、姉ちゃんは透さんとのデートに出掛けました」

 パキッ。八神さんの関節が鳴った。

「たぶん、透さんは今日、改めて姉ちゃんに告白するつもりです」
「そうだね。こないだそう言ってたもんね」
「っ! 八神さんは姉ちゃんがこのまま透さんと結婚してもいいんですか!?」

 淡々と答える八神さんの態度に、俺は叫んだ。だって、透さんは最初に言っていた。結婚を前提に付き合ってほしいと。だからつまり、この告白にOKを出したら姉ちゃんと透さんは必然的に婚約者になるわけだ。

「俺は……俺は嫌だ!! そりゃ、姉ちゃんが本気で好きで選んだ相手なら文句は言わないよ? でも、こんな風に流されてみたいな、自分の気持ちを押し殺してみたいなのはダメだ!!」

 今の自分はまるで駄々をこねる小さな子供みたいだ。でも、俺の主張は止まらない。

「姉ちゃんはなぁ、誰よりも幸せになんなきゃダメなんだ!! 今まで俺や親父のために自分の人生犠牲にしてきたんだから!! 誰よりも幸せになってほしいんだよ!!」

 困惑に揺れる八神さんとしっかり目が合った。

「だから俺は……もし八神さんが姉ちゃんのこと好きなら全力で応援する。姉ちゃんの幸せには八神さんが必要だからだ。でも、姉ちゃんのことそういう風に見れないっていうならそれでいい。ハッキリ言って八神さんより良い人はもっといっぱいいる。透さんもその一人だ」

 俺はふぅーと、肺に溜まった酸素を吐き出す。

「……帝都(ていと)・グランドホテル十二階。レストランエスポアール」
「え?」
「今日の二人のデート場所だよ!! ……どうする? 八神さん」
「僕……は……」
「八神さん。俺は八神さんの本心が知りたい」

 ぐっと握り拳を作った八神さんは勢いよく立ち上がると、外に向かって急いで走り出した。もちろん俺も後に続く。狭い階段を駆け下りると、その先に停められていた一台の黒い車がクラクションを鳴らす。運転席の窓がゆっくりと開いた。

「ハイそこの二名確保ー!! さっさと後ろに乗った乗った!」

 窓からひょっこりと顔を出したボサボサ頭に、八神さんは驚いたように呟く。

「……芳賀さん?」
「いいから八神さん、早く乗って!」

 俺は有無を言わせず八神さんを車に押し込んだ。スーツのシワは元からなので気にする必要なんかない。

 何故こうも都合良く芳賀さんが待機していたかというと、昨日、帝都・グランドホテルまで車を出してくれないかと俺が相談していたからだ。事情を聞いた芳賀さんは快く(面白そうだとニヤつきながらだけど)受け入れてくれたので、こうしてうちの前でスタンバッててくれたのだ。うん、自分もパーティー会場として使ったことのあるホテルだし道順も分かっているだろうという事を予測して根回ししておいたのだが、やはり大当たりだったようだ。

「飛ばすからな! 二人ともしっかりつかまってろよ!」

 言うと同時に、芳賀さんは全力でアクセルを踏んだ。F1レーサーのようなハンドル捌きで次々に車を抜き去って行く。しかし、交通ルールはちゃんと守っているので安心してほしい。

 多少の渋滞にハマったものの、芳賀さんのおかげで予定より早く帝都・グランドホテルに到着出来た。透さんと姉ちゃんはもうとっくに着いているだろう。俺たちもエレベーターに乗り込み、急いでレストランへと向かう。

 ぜぇはぁと肩で息をしながら、ようやく目的のレストランを見つけた。中に入ろうとしたところ、入口ですかさずボーイに止められた。

「ご予約のお客様でしょうか?」

 にこやかな笑顔だが、細くなった目の奥が「何だこの場違いな奴らは」とハッキリ語っている。そりゃそうだろう。ボサボサ頭のスウェット男と、顔色の悪いヨレヨレスーツ男、そしてただの高校生という異色の組み合わせだ。不審に思うのも無理はない。

「いや、予約はしてないが」
「申し訳ありませんが、当ホテルをご利用のお客様以外は完全予約制となっておりまして」
「俺は作家の芳賀恭一郎だぞ! それでも入れないのか!?」
「そ、そう言われましても……」

 完全にブラックリストに入りそうな迷惑客のテンプレ台詞を叫びながら、芳賀さんは俺たちに今のうちに入れと手で合図する。そんな……自分の名を利用して大丈夫なのか? 芳賀さんの評判に影響が出たらどうしよう。

 そうは思いつつも、芳賀さんが時間を稼いでいる間に俺と八神さんは中に入り、レストランの客をキョロキョロと探しだす。どこだ? 姉ちゃんと透さんはどこに座ってる?

「居た!!」

 夜景がバッチリと見える窓際の端から二番目。向かい合って座る男女。透さんはストライプの入った紺色のスーツがよく似合っていた。俺は興奮気味に言った。

「居ました! 居ましたよ八神さん!!」

 しかし、彼からの返事はない。

「……八神さん?」

 ハッとして振り向いた先には、真っ青な顔をした八神さんが居た。呼吸も早く、目の焦点も合っていない。……これはヤバイ。かなりヤバイ。俺は失念していた。ここ数日の八神さんの体調、今日ここまで来るのに使った体力。それらは全て、八神さんの限界をとっくの昔に越えていたのだ。

 フラリ。八神さんの体が傾く。


「八神さんッ!!!!」


 バターーーーン!!


 大きな音をたてて、八神さんは茶色い絨毯の敷いてある床の上へとぶっ倒れた。俺は慌てて八神さんに駆け寄る。

「大丈夫ですか!? 八神さん、八神さん!!」

 辺りが「何っ!?」「人が倒れた!」「き、救急車!」と騒然とする中、俺の目には顔面蒼白でこちらに駆け寄る姉ちゃんの姿が飛び込んできた。