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 ここ数日、八神さんの顔色がすこぶる悪い。

 姉の特製ドリンクを飲んでも栄養たっぷりご飯を食べても回復の兆しは見えて来ず、大好きな読者も捗らないようだった。喫茶店にもしばらく顔を見せていない。今日も朝から調子が悪いようで、本が山のように積み重なった小さなデスクの上に顔を伏せていた。ここまでくると、さすがに大丈夫だろうかと心配になってくる。店番の最中だけど、もう少ししたら様子を見に行ってみようか……。

「弟くん、弟くん!」

 知らないうちに指定席と化している右奥のテーブルから、俺を呼ぶ小さな声がした。

「はい?」
「ちょっとちょっと! 久しぶりに来てみたら何あれどうなってんの? 誰あの男。八神くんは? ついに捨てられたの?」

 ヒソヒソと矢継ぎ早に質問を口にするのは、小説家の芳賀恭一郎だ。芳賀さんはがっつり夏休みを取り、一ヶ月半ほど家族でハワイ旅行に行っていたので、今までの流れをまったく理解出来ていない。なので、俺は今の状況を掻い摘んで説明する。

「ええっ!? 何その面白い話! 次の小説のネタにしてもいいかな!?」

 ことのあらましを聞いた彼は目を輝かせ嬉々とした表情で言い放った。他人事だと思って楽しんでやがる。そんな態度続けるならあとで愛理ちゃんと桜子さんにチクってやるからな。

「しかしそうか。俺のいない間にそんなことが起きてたなんて……」

 芳賀さんはカウンター席で姉ちゃんと談笑している透さんを値踏みするように観察する。

「相手の男はイケメン好青年。しかも公務員で将来安泰。うん、まさに優良物件だ。あー、あの目は本気で惚れてるな。萌加ちゃんも話してて悪い気はしてないみたいだし……おいおい、美男美女カップルの誕生か?」

 芳賀さんの言う通り、二人が並んで喋っている姿は似合っている。なんだかんだ姉ちゃんも楽しそうだし、なかなか良い雰囲気だ。……姉ちゃんの気持ちを知ってる身としてはちょっとばかり複雑だけど。

「それよりもだ!! こんな時に八神くんは何をやってるんだ!? このままだとあの優良物件に萌加ちゃんの入居が決まってしまうぞ!?」
「体調不良の真っ只中です」
「……ああ、そうか。こっちは欠陥住宅だったんだ……」

 芳賀さんは独特の比喩表現を使って八神さんを哀れむ。いや、その言い方普通に酷くない? そりゃ八神ハウスは他より強度は圧倒的に低いけど、雨風くらいはしのげるはずだ。たぶん。

「大体マスターもマスターだ! 萌加ちゃんの気持ちを知っていて何故あの男を勧める? あっ、ちなみに俺は愛理に好きな野郎が出来たら全力で潰しにかかる予定だけどね!!」

 出た、芳賀さんの娘に対する溺愛っぷり。

「そりゃあ……八神くんは生活能力がなくて体力がなくてろくな職業に就いてないただ病弱で病弱で病弱な男だけど。誰よりも優しくて良い男じゃないか。いざという時頼りにもなるし。マスターだって八神くんの事気に入ってるのに……」

 芳賀さんは静かに俯いた。八神さんのイメージに偏りがあるのは、愛情の裏返しということにしておこう。

「あれ? そういや今日クソ親父は?」

 俺はふと気が付いた。そうだ。なんだか店の中がやけに静かだと思っていたら、今日はまだ年中無休で頭の中リオのカーニバル状態なクソ親父の声を聞いていないのだ。

「マスターなら朝からいなかったよ。あれ? ていうか豆の仕入れから帰って来てたの?」
「はい。こないだ大量の麻袋抱えて陽気に帰って来ましたとも」
「そうか! じゃあ久しぶりにマスターの珈琲が飲めるんだな! 早速いただこう!」

 いや、戻って来ない限り頼めませんけどね。心の中でツッこんでいると「賢斗!」と姉に呼ばれたのでカウンターの中へ向かう。

「何?」
「これ、八神さんのお昼ご飯。今日まだ食べてないでしょ? こっちにも下りて来ないし、体調も悪いみたいだから様子見ついでに渡して来てほしいの」

 姉ちゃんは心配そうな顔をしながら、俺に八神さん用の弁当を託す。

「わかった」
「……仲良いですよね、八神さんと」

 透さんが俺たちの様子を見ながら言った。

「いつも彼の事を気にかけてるし、こうやってご飯の用意までして」
「まぁ、あんな感じの人ですからねぇ。なんていうか、放っておけないんですよ」

 姉ちゃんは〝しょうがないなぁあの人は〟とでも言いたげにふっと表情を緩めた。……透さんは何も言わない。

「じゃあ俺、ちょっとこれ渡してくるわ」
「うん。お願いね!」

 あの何とも言えない空気を抜けてさっさと上がって来たのだが、狭い探偵事務所の中にいつもの八神さんの姿は見当たらない。その代わり、デスクの上に〝ちょっと出掛けて来ます。夕飯の時間までには帰ります〟というやたらと筆圧の薄い書き置きが残されていた。

 どこに行ったかは知らないけれど、あんな体調で出掛けるなんて大丈夫なんだろうか。いつかみたいに道端で倒れてなきゃいいけど。

 俺ははぁ、と溜息をついた。……どうか、この考えがフラグになりませんように。