*
「僕さぁ、一度でいいから献血ってしてみたかったんだよねぇ」
文庫本を片手にぼんやりと遠くを見つめていた八神さんが、思い出したように呟いた。
「えっ?」
「ほら、道路とか歩いてるとさ、プラカード持った人が〝献血にご協力くださーい〟とか叫んでるじゃん。あれ見るたび、ああ、僕も協力出来ればなぁって思ってて」
「ええ……そんな事考えてたんですか?」
「そうだよ。こんな僕でも人の役に立てるってことを証明したくてね。そうだ、今どっかでやってないかな? 歩いてたら見つかると思う?」
「ち、ちょっと待って絶対無理だから! 早まらないで八神さん!!」
ただでさえ血の気がない八神さんが献血なんてしたらとんだ自殺行為だ。まぁもし行っても事前検査の時点で即断られるだろうけど。彼はどちらかと言うと分けてもらう側だし……。
「まぁそうだよねぇ。こんな不健康な血、誰もいらないよねぇ」
呟くようにそう言って溜息をついた。……うん。見ての通り、八神さんの様子がいつも以上におかしい。原因はまぁ、分かりきっている。
本日、透さんとうちの姉が仲良くデートに出掛けているからだ。
事は、うちの店に透さんが来た時に起きた。
「萌加さん。同僚に映画のチケット貰ったんですけど、良かったら今度観に行きませんか?」
「ありがたいお誘いですけど、ちょっといつ休みが取れるかわからなくて」
遠回しに断っていると何故か親父が張り切って出てきた。
「えー、いいじゃん! せっかくだからデートしてきなよ! たまには休んでいいよ。店は父さんに任せて! これでも父さんここの店主だから! 主人! マスターだからさ!」
という姉ちゃんにとっては余計な、透さんにとっては嬉しい援護射撃が入り、二人はデートに行く事になったのだ。その時八神さんはいなかったが、後から親父が話したようで俺が教える前に知っていた。
……まぁ、様子がおかしいと言っても不機嫌になったり透さんに嫉妬してるとかそういう素振りは見当たらない。ぼーっと何かを考えていたり、時々さっきみたいな突拍子のない発言をする程度だ。
八神さんが少なからず二人のことを気にしているのは確かなのだが、姉ちゃんの前ではいつも通り顔色の悪い笑顔で過ごしているのでイマイチ本心が掴めない。姉ちゃんは姉ちゃんで、そんな八神さんの態度にモヤモヤしているようで……めんどくせぇ。行ってほしくないならそう言えばいいし、止めてほしいなら行かなきゃいいのに。ったく、色々と拗らせた大人は面倒くさくて仕方ない。
「さてと。そろそろ僕は事務所に戻るね。お客さんが来てるかもしれないし」
いや、それはいつも入口に「御入用の方は喫茶カサブランカまで」っていう貼り紙をしてるから心配ないだろうに。八神さんはアンティーク調のドアをカラン、と開ける。
「……あ」
喫茶店から数メートル先に立っていたのは、デートを終えて帰ってきた透さんと姉ちゃんの姿だった。透さんはここまで送ってきてくれたのだろう。二人は何やら楽しそうに話をしている。姉ちゃんも、ケタケタと声をたてて笑っていた。
「あれっ? 八神さんに賢斗くん!」
俺たちに気付いた透さんがひらひらと手を振り駆け寄ってくる。
「カサブランカに来てたんですか?」
「ええ。僕常連なんですよ。事務所がすぐ上にあるものでね」
「えっ、そうなんですか!? 探偵事務所に喫茶店って、なんか漫画みたいな立地条件で憧れますねぇ!」
透さんは興奮したように言った。
「でしょ? 僕も気に入ってるんですよ。透さんはデートですか?」
「いやいや! 俺が無理に誘っただけなんでデートとかじゃないですよ! 萌加さんはただ付き合ってくれただけです」
「いえ、そんな……」
「あっ、もうこんな時間だ……じゃあ萌加さん。今日はありがとうございました。また今度お会いしましょうね!」
「こちらこそありがとうございました。……ええ、また」
透さんがいなくなると、水を打ったような静けさに包まれた。
……き、気まずい。なんだこの空気。ここだけ二酸化炭素しかないんじゃないかってぐらい息苦しいんだが。
「おかえりモカちゃん」
「た、だいま」
姉ちゃんは引きつったぎこちない笑顔で答えた。対する八神さんの笑顔はいつもと変わらない青白く穏やかなもの。
「今日は何して来たの?」
「……えっと、映画見てご飯食べました」
「楽しかった?」
「……ええ、まぁ」
「そっか。透さん良い人そうだし、よかったね」
淡々と告げた八神さんはそのまま二階へと上がって行った。
……その時姉ちゃんがどんな顔をしていたのか、俺はとてもじゃないけど見る勇気が出なかった。