昼間のおかげかこないだよりは明るい旧校舎だが、相変わらず空気は埃っぽいし廊下はギシギシと軋んでいた。この音楽室も、怪しげな雰囲気は健在だ。
「──さて」
真っ黒なグランドピアノを囲むようにして並んでいる俺たちを確認すると、八神さんは切り出した。
「さっきの続きだけどね。奈々さん、君が言ってたのはこのピアノで間違いないね」
「はい。この蓋を開けて隅々まで探してます」
江川さんはハープを横に置いたような形の黒いボディを指差しながら言った。
「ああ、やっぱり。君が言っている蓋はピアノの響板──鳥の翼のような形のこの部分だね」
俺がハープを横に置いたような、と説明したその部分は響板というらしい。鳥の翼……まぁ、見えなくもない。
「これを覆っている黒い部分はね、蓋じゃなくて屋根って言うんだ」
「えっ!?」
「ピアノに詳しくない人はあまり知らないだろうね。普通に蓋に見えちゃうし」
屋根……確かに初耳だ。ていうかあの部分に名前があったことすら初耳である。それにしても、八神さんは何故こんなに詳しいんだろう。ピアノでも習ってたのか? 言いながら八神さんは黒い棒のようなもので開いた屋根を支える。
「この屋根はピアノの音を反響させる役割があってね。この突上棒で支えてあげれば……よし、開いた。奈々さんが探してた場所ってこの中のことじゃないかな?」
動物捕獲の罠のように開かれたピアノの内部をチラリと見ると、江川さんは小さく頷いた。
「実はピアノには一度入ると中々出て来られない秘密のスポットがあってね。おそらく、西原先生は預かったプレゼントをこっちの隙間に落としたんじゃないかと思うんだ」
八神さんは鍵盤を覆っている蓋に手を掛ける。横長の赤いフェルトをしゅるりと外すと、白と黒の鍵盤がお目見えだ。
「ほら、見える? グランドピアノの鍵盤蓋はね、開閉する時こうして本体との間に隙間が出来るんだ」
説明しながら、八神さんは再び鍵盤の蓋を閉じた。
「誰か鉛筆持ってない?」
その問いにいち早く反応したのは芳賀さんだった。ネタをメモするために使っていた赤いシャーペンを八神さんに渡す。
八神さんは借りたシャーペンを閉じた蓋の上にのせ、そのままサッと開く。すると、蓋の上にあったシャーペンはコロコロ転がり、蓋とその正面との間に出来た僅かな隙間に吸い込まれるように消えてしまった。ほんの一瞬。まるで手品のような鮮やかなイリュージョンだった。
「これが和臣さんの考えたプレゼントの隠し場所ですね? なので、おそらくプレゼントはこの隙間に入る大きさの物だと思います」
「そ、そうそう、まったくその通りです! 和臣から預かっていたのは一通の封筒でね。その中身は俺も知らないんだ。俺は言われた通りの場所に指示通り隠しただけ。俺もピアノに全然詳しくないからさ、実はどうやって取り出すのかなって疑問だったんだよ。だって、どうしたって手が届かないんだから!」
西原先生は興奮気味に言った。
「確かにそうです。この隙間に入ってしまってはどう頑張っても中身を取り出せません。でも、簡単に取り出せる方法はあるんです。今から説明しますが……自慢じゃないけど僕は体力がないんだ。ここから先はケントくんに手伝ってもらおう。ケントくん」
「ぅえっ?」
突然お呼びがかかった俺は、驚きながらもピアノに近付いた。
「実はこの鍵盤蓋はね、コツさえ掴めば誰でも簡単に外せるものなんだ。ケントくん。蓋を開けた状態にして上の曲線になってるところを手で掴んでみて」
「えっと、こうですか?」
「そうそう。そのまま上に真っ直ぐ持ち上げて。重いからゆっくりでいいよ」
言われた通りゆっくり真上に持ち上げると、蓋はストンと外れた。確かに予想していたより簡単に外せたが、この黒い蓋、マジで結構重い。八神さんが持ったら倒れるかもしれないな。
「重いから横に立て掛けておいていいよ」
八神さんに言われた通り、俺は壁側に立て掛けるように黒い蓋を置いた。
蓋を外すとピアノの内部がよく見える。おお、なんだか見てはいけないゆるキャラの中身を見てしまった気分だ。白い鍵盤の向こうには、木琴のような板がずらりと並んでいた。どうやら鍵盤と繋がっているらしい。ピアノの仕組みは複雑である。そして、その板の真ん中にぽつんと乗っているのは落としたばかりの鉛筆と、一枚の封筒。
「あっ!!」
「こ、これです! これ、俺が入れた封筒! 間違いない」
「こんな所にあったなんて……これじゃあ見つかるはずないじゃんか」
江川さんが嘆くようにポツリと言った。
「奈々さんも言ってただろう? 二人の出会いはこの音楽室で、取れない場所に落としてしまったシャーペンを取ってくれたことだって。きっと、麻衣さんはこのピアノと鍵盤蓋の隙間に落としてしまったんじゃないかな。だからきっと和臣さんはその時と同じ場所に封筒を隠したんだと思う。二人しか知らない特別な思い出だから」
「……そういえば。お姉ちゃん、分解してあっという間に取ってくれたのがカッコ良かったとか言ってたような……。なんのことか分からなかったけど、きっとこうやって蓋を外してくれたんですね」
「おそらくね。……さぁ、奈々さん」
八神さんに促され、江川さんは封筒に腕を伸ばす。
「……あの」
「わっ!?」
突然聞こえた声に心臓が飛び出そうになった。音楽室の入口には、白いシャツにプリーツのロングスカートをはいた美人が立っていた。ぐっと眉を潜め、こちらを怪訝そうに見ている。
「八神探偵事務所から緑ヶ丘高校の旧校舎に妹を迎えに行って下さいって電話が来たんですけど……」
「お、お姉ちゃん!?」
江川さんが驚いたように叫んだ。お姉ち……ってお姉さん!? 和臣さんの恋人の!?
「お待ちしてましたよ。江川麻衣さん」
八神さんはニコリと笑みを浮かべながら言った。この口ぶりからすると、麻衣さんが来ることを事前に知っていたようだ。
「な、なんでここにいるの!?」
「女の人から電話が来たのよ。あなたの妹がうちの探偵と学校の七不思議を調べてるから、変なことに巻き込まれる前に迎えに行った方がいいって」
女の人……? って、それ絶対うちの姉ちゃんだ。八神さん、姉ちゃんに頼んで麻衣さんに電話してもらったんだ。
「うわー、適当に言ってこっちに向かわせてとは言ったけど、これはちょっとひどいよモカちゃん」
案の定、八神さんがぼそりと嘆いた。麻衣さんはきっと鋭い目で睨みつける。
「ていうか何なんですかあなた達。うちの妹を変なことに巻き込まないでくれます?」
「待ってお姉ちゃん、これには事情が!」
「麻衣ちゃん!」
声を掛けた西原先生を見ると、麻衣さんは手を口元に当てて「えっ!?」と叫んだ。
「駿くん……だよね? やだ久しぶり!! てかなんでいるの?」
「なんでも何も俺今ここで教師やってんだよ」
「ウソッ!? 全然知らなかったんだけど! 妹の担任とか言わないよね!?」
「ははっ、残念だけどそれはないね。ぶっちゃけ麻衣ちゃんの妹だって知ったのちょっと前だし」
西原先生のおかげでいくらか空気は和らいだ。
「学校の先生も付いてるってことは……もしかして七不思議を調べるっていうのは何かの課題なの? 迎えに来いっていうのも先生の指示?」
「いや。それはちょっと違くて」
「ごめんねお姉ちゃん。私がこの探偵さんに依頼したの」
「探偵に依頼? 奈々が? 何のために?」
一瞬、江川さんは躊躇うような仕草を見せたが、覚悟を決めたのか姉を真っ直ぐ見て言った。
「……前、和臣さんからお姉ちゃんに手紙が届いたでしょ?」
麻衣さんの表情が強張る。
「あれ、ゴミ箱に捨ててあったから私が拾ったの。中身も読んじゃった。ごめん」
「なっ!」
「その手紙にね、この音楽室にお姉ちゃんに贈るプレゼントを隠したって書いてあったの。探してくれるかは分からないけど、人生を賭けるって。私ずっと探してたんだけど見つからなくて。旧校舎は夏休みになったら取り壊されちゃうし、その前にどうしても見付けたくて……だから探偵に依頼したの」
「彼とは別れたって言ったでしょ。もう関係ないのよ」
「だって! 納得いかないもん! あんなに仲よかったのになんで別れなきゃならないの!?」
「好きじゃなくなったのよ! ピアノばかりで私にかまってくれないし、一緒にいる時間も少ないし。もう疲れたの!」
「嘘! 今でも和臣さんのこと好きなくせに!! 私知ってるんだから! ネットで和臣さんの演奏動画見てるの!」
「それはっ」
「今でもお互い好きなのに!! なんでお姉ちゃんは別れるなんて言ったのよ!?」
「っ、仕方ないでしょ!? 和臣と私じゃつり合わないんだから!!」
そう叫んだあと、麻衣さんはぎゅっとスカートを握る。
「彼には才能がある。間違いなく和臣は世界で活躍するピアニストになるわ。それには私の存在が邪魔なの。今回の海外公演だって最初は断ったのよ? せっかくのチャンスなのに私と一緒に居たいからって。マネージャーさんにもこのままだと和臣はダメになるって言われたわ。だから離れる決意をしたの」
「そんなのお姉ちゃんのせいじゃない。和臣さんは、」
「……私がっ!! 私が彼の足を引っ張るのは嫌なのよ!!」
これが麻衣さんの隠していた本音なのだろう。彼女は好きだけど相手のためを思って別れたのだ。
「開けてみませんか?」
室内に場違いな明るい声が響いた。
「たった今、和臣さんのプレゼントを見つけたところなんですよ。この音楽室のどこに隠してあったと思います?」
「……そんなの分かるわけないじゃない」
「いいえ。あなたならすぐに分かると思いますよ」
麻衣さんの視線は真っ直ぐにグランドピアノに注がれる。鍵盤の蓋が外され木の板が丸見えのそこには、淡い黄色の封筒と赤いシャーペンがまだ置かれていた。
「まさか……」
麻衣さんの目が見開かれる。
「あの時のこと覚えてて再現したっていうの?」
「和臣さんが人生を賭けたプレゼント。せっかくここまで来たんですから、中身を見てあげてもいいんじゃないですか?」
「……お姉ちゃん」
二人の言葉に背中を押されたのか、麻衣さんはゆっくりとピアノに近付く。ぽつんと置かれた封筒をしばらく見つめると、そっと手に取った。おそるおそると言った様子で閉じられた封を開ける。俺たちも固唾を呑んでその様子を見守っていた。
出てきたのは丁寧に折られた手紙らしき紙と、ジップ付きの透明な袋に入ったシルバーの指輪。真ん中にキラキラと輝くダイヤモンドが付いている。
その指輪の意味を理解して、全員ハッと息を呑んだ。麻衣さんも予想していなかったのだろう、驚嘆した表情を浮かべている。丁寧に折られた紙を静かに開くと、小さく震えた声が溢れた。
「なによアイツ……人の気も知らないで」
ぽたり。丸い滴が床を濡らす。
「私がどんな思いで別れようって言ったかも知らないくせに……勝手にこんなもの……探すかどうかも分からないのに……バカじゃないの」
チラリと見えた三つ折りの紙は、茶色で縁取られていた。
「部外者の僕が言うのもあれですが……あなた達はもう一度話し合うべきだと思います。本当に大切な物を失ってしまう前に」
「……は、い」
旧校舎の音楽室には、麻衣さんの小さな嗚咽が静かに響いていた。
*
「はーい。本日のオススメ、ガトーショコラとキリマンジャロのセットです」
「ありがとうモカちゃん」
運ばれてきた皿を嬉しそうに眺めると、目の前の八神さんはカップに遠慮なく角砂糖を沈めていく。あーあ。せっかくのオススメコーヒーなのに、これじゃあキリマンジャロの風味もコクもあったもんじゃない。俺は小さく溜息をついた。
──旧校舎の幽霊は、姿が見えなくなったらしい。
ある日を境に、ぱったりと見えなくなったのだ。江川さんの探し物が見つかり、もうあの音楽室に行く必要がなくなったのだから当たり前といえば当たり前なのだが、事情を知らない生徒からするとさぞかし不思議なんだろう。
代わりに、こんな噂が流れ始めた。『旧校舎の幽霊は小説家の芳賀恭一郎が除霊したのだ』、と。
芳賀さんが来た日から幽霊が見えなくなったのでこの噂が広まったのだが、みんなの想像力には本当に驚かされるばかりだ。休日に忍んで学校に来たのは生徒に除霊を悟られないためだとか、校舎内を歩き回っていたのは取材のためじゃなく幽霊のなくした楽譜を探していた、とか。まぁ、そのおかげで彼女の正体もバレず幽霊騒動も上手く落ち着いたので、これで良かったのかもしれない。
ちなみにそんな芳賀恭一郎はこないだの取材でアイデアが閃いたらしく、只今絶賛執筆中だ。この調子でいくと次の締め切りまで間に合うだろう。
「そういえば八神さんってピアノやってたんですか?」
「うん? ああ、小さい頃に少しね」
「やっぱり。部位の名前とか扱い方とか妙に詳しかったですもんね」
「あれはピアノをやってる人ならみんな知ってるし大した事じゃないよ。それより、僕の代わりに動いてくれてありがとうねケントくん。鍵盤の蓋、戻すの大変だったでしょ?」
確かに鍵盤蓋は外すのは簡単だったが戻すのはけっこう大変だった。要は、蓋の両端をピアノ本体の両端に付いている金具に差し込めばいいのだが、それを合わせるのが中々難しい。蓋の下に付いた赤いフェルトと鍵盤の両端にある赤いフェルトを一直線になるように合わせれば簡単に入るはずだと言われても、肝心のフェルトがどこにあるのか分からなかったり、重くてずれてしまったり。何度も挑戦してやっと入ったが、次の日には腕が筋肉痛になっていた。
ちなみに、無理して戻そうとしたり焦ってやったりするとピアノに傷がつくので、もしあの中に物を落としてしまった場合は調律師さんを呼ぶのが一番良い方法だそうだ。
「まぁ……ははは」
苦笑いを浮かべていると、店のベルが鳴った。
「八神さん、佐藤くん、待たせてごめんね!」
息を切らせながら入ってきたのは江川奈々さんだ。その表情は以前とは違い生き生きとしている。素早く注文を済ませて俺の隣に座ると、深々と頭を下げた。
「八神さん。先日は無茶な依頼を引き受けてくださってありがとうございました。姉も感謝してます」
「いいのいいの。お姉さんは元気?」
「元気ですよ。今空港にいるんです」
「空港?」
「そう。今日帰ってくる日だから」
江川さんは嬉しそうに言った。なるほど。麻衣さんは彼を迎えに空港に行ったのか。
「って言っても一時帰国だけどね。日本凱旋公演。それが終わったらまた海外。ちゃんと帰国するのはもうちょっと先かな?」
「……しかし、和臣さんもすごい物をプレゼントにしたよなぁ」
あの時、指輪の他に入っていた紙はなんと婚姻届だった。しかも、和臣さんの名前は記入済みで判子まで押してあったのだ。まさに〝人生を賭けた〟プレゼントである。
「指輪は日本にいる時からフランスのお店に頼んでたんですって。オーダーメイド数ヶ月かかるからねぇ、事前に準備してたみたい」
きっと、日本を発つ前にはプロポーズを決めていたんだろう。それなのに突然振られて……和臣さんも辛かっただろうなぁ。
「さすがに婚姻届はビックリしたけど和臣さんらしくて面白かった。それに、あの手紙もお姉ちゃんには効果的だったんじゃないかなぁ」
和臣さんが隠した封筒には、指輪と婚姻届の他にもう一通手紙が入っていた。
〝君と出会ったあの頃、僕はピアノをやめようか悩んでいたんだ。僕の演奏を純粋に聴いてくれる人はいなくて、周りの重圧ばかりがひどくなって、だんだん好きなピアノを楽しく弾けなくなった。何のために続けるのか分からなくなって、もうやめようかと本気で悩んでいたんだ。そんな時、あの音楽室で君に出会った。初めて僕のピアノを聴いた時の感想、覚えてる? あなたの音色はあったかくて優しくて、聴く人の事を想ってるのが伝わるから好きよってはにかみながら言ってくれて。僕の心は救われた。
僕は君がいないとピアノが弾けない。君がいないならピアノを弾く意味がない。全ての演奏は君を想って弾いているから。
だからどうか、これからも僕の傍で一生ピアノを聴いていて下さい。〟
この手紙を読んだ麻衣さんはすぐに日本を発ち、直接和臣さんに会いに行ったそうだ。女性の行動力はすごい。そこで色々と話し合いが行われたのだろう。
「あっ、お姉ちゃんからだ。……和臣さん帰ってきたみたい。ニュースにもなってるって!」
スマホで確認すると、それは既にネットのトップニュースになっていた。〝先日婚約を発表したイケメンピアニスト、若宮和臣が日本凱旋公演のため帰国〟という記事が写真付きで載っている。出迎えに来たファンに笑顔で手を振るその左手薬指には、銀色に光る指輪がしっかりとはめられていた。
「ピアノかぁ。僕も久しぶりに弾いてみようかなぁ」
「結婚行進曲なんてどうです?」
「そうだ! お姉ちゃんたちの結婚式に弾いて下さいよ!」
「いや、さすがにプロの前で付け焼き刃の演奏はちょっと……」
しかし、八神さんがタキシードを着てピアノを弾いている姿を想像すると結構似合ってる。クソ、これだからイケメンは。
姉ちゃんが江川さんのケーキとコーヒーを運んでくる。全員分の飲み物が揃ったところで、ニヤリと笑みを浮かべた八神さんが言った。
「それじゃあ、祝福のカンパイといきますか」
「賛成!」
「大団円、おめでとー!」
俺たちはこの日、コーヒーカップで祝杯を上げた。
第2話.了
サマーバケーション。夏の休日。そう、世間は夏休みに突入した。
開放的な気分になりがちなこの時期はやれフェスだやれ海水浴だやれ祭りだとイベントが盛り沢山だが、俺は青い海も白い砂浜も夜空に咲く花火も何も見なくていい。俺は、エアコンが効いた涼しい部屋でだらだらと一日を過ごせれば何も文句は言わないのだ。枯れた青春なんて言われても痛くも痒くもない。
しかしながら、八神さんは放っておくとおそらく熱中症か栄養失調であっという間に死んでしまうので、夏休み中はほぼこの探偵事務所を訪れなければならない。ちなみに冬は凍死の危険性が加わるので冬場もほぼ毎日訪れる。ああ、あの人はなんてめんどくさい人種なんだろう。
「ああ……暑い。暑すぎる……こんな時に外なんか出たら死んじゃう……死んじゃうよ……」
心底ぐったりとした表情で八神さんは言った。白いワイシャツと同じ色をした肌の色のせいか、暑い暑いと言いながらも見た目は涼しそうである。
「これは地球が僕たちに復讐でもしてるのか? 人間が好き放題汚してしまったから……地球温暖化を止めることは出来ないのだろうか。そうだな、まずはCO2の削減と海洋プラスチックゴミの削減から始め、」
ぶつぶつ独り言を呟いているこれは暑さで頭がやられてるわけじゃない。残念ながら通常運転だ。
「あのぉ、すんません。今ちょっといーッスか?」
低い声にハッとして振り向くと、金髪ツーブロックの強面ヤンキー風な男性がドアの前に立っていた。驚いて固まっていると「一応ノックしたんスけど気付かなかったみたいなんで」と鋭い視線で言われる。
「す、すいません! ええと、まずはこちらへどうぞ! ほら八神さん、お客様ですよ!!」
俺は慌ててヤンキーを中に案内する。暑さとは違う汗が出そうだ。デスクからのそりと顔を上げた八神さんは幽霊と見間違うような儚い笑みを浮かべヤンキーと対峙する。
「どうも八神碧です。こっちは助手のケンティー」
「……佐藤賢斗です」
なんだそのあだ名一回も呼ばれた事ねぇよ! というツッコミを喉の奥に抑えながら、俺は八神さんをジロリと睨む。
「真田樹。飲食店アルバイトッス」
「そっかそっかぁ~。暑い中よく来たねぇ。ほらほら、冷たい物でも飲んで」
なんだか久しぶりに実家に帰ってきた孫との会話に聞こえるのは気のせいだろうか。
「や、なんつーか。たまたま入った下の喫茶店でケーキ食ってたら、美人な店員さんに上の探偵事務所に行ってみればって言われて来たんス。あの人なら相談にのってくれるよって」
「何か困ってることがあるなら聞きますよ。探偵ですから」
八神さんは探偵と便利屋を間違えてるんじゃないだろうか。俺はペットボトルの中身をコップに注いだだけの麦茶を真田さんの前に持っていく。
「もちろん、相談された内容は誰にも言いません」
安心させるように笑うと、真田さんはぼそぼそと話しはじめた。
「実は俺……こう見えて物作りが好きで。物作りって言っても家造りとかDIYとかじゃなくて。その……女性が好きそうなアクセサリーとかぬいぐるみとかそういう可愛い系の。ハンドメイドっつーんスけど」
……パードゥン? 心の中で呟いて、失礼ながら二度見する。そのせいで危うく麦茶を零しかけてしまった。女性が好きそうな可愛い系のハンドメイドって……誠に失礼ながらその外見からはまったく想像がつかない。どっちかといえばクラブでポンポンとかナイトプールでパシャパシャとかしてる方がしっくりくる。いや、偏見を持っているわけではないが……ただただ驚いた。
「ちなみにこのピアスも自分で作ったやつなんスけど」
「わっ! すごい!! 売り物かと思った!!」
それは八神さんの意見に同意見だった。長さの違うシルバーの二十チェーンが付いたロングピアス。片方の先に小さな星が装飾されていて、男女に人気がありそうなデザインだ。
「いや、こんなのは簡単なんス」
少し照れたように言う姿はなんだか可愛く見える。え、なんかこの人、見た目怖そうなのに中身めっちゃいい人じゃね?
「ハンドメイド作家の作品を売買出来る『Cre』っていうアプリがあって、俺はそこに登録して自分の作品載せてるんス。こんな風に」
見せられたスマホの画面にはSANAの名でずらりと画像が並んでいる。レジンピアス、ビジューネックレス、刺繍ハンカチ、ネコのチャームが付いたストラップ。どれもお店で売られているようなクオリティーだった。
すげぇ。このファンシーな小物が全部この強面ヤンキー真田さんの手作りなんて信じられない。
「こうやって作品を投稿して販売してるんス。作品に対して感想を言い合ったり、アドバイスしたり作りたい作品のアイデア出し合ったりも出来て」
他の人の作品も見せてくれたのだが、みんなクオリティーが高く手作りとは思えないものばかりだった。
「好きこそ物の上手なれなんて言いますけど、皆さん本当にお上手ですねぇ」
「みんなマジでヤバいッスよね! 実はこのアプリで仲良くなった人がいて……オフ会しないかって、誘われたんスけど……」
「オフ会っていうのはネットでやり取りしている人と実際に会う、ということですよね?」
「……はい」
真田さんは何故か浮かない顔をしている。
「真田さんはオフ会に行きたくないんですか?」
「いやいや違うんス! オフ会に行きたくないわけじゃなくて! むしろ行きたいんスけど、でも!」
はぁ~と長く息を吐いて、真田さんは力なく言った。
「実は……俺、ネカマやってるんスよ」
いきなり衝撃のカミングアウトである。
「ネカ……えっ?」
「ネット上で性別を女だって偽ってるんス。このアプリもSANAって名前でアカウント作ってて……」
「な、なんでそんな事?」
ぽろりと口を出た疑問に、真田さんはクワっと目を見開いて叫んだ。
「だって!!!! 男がこんなん作ってたら気持ち悪がられるに決まってんじゃん!? ハンドメイドって圧倒的に女子率高いし!!」
「は、はぁ」
「アプリの登録者も女子のが多いし!! 男って分かったらドン引きされてありえないこの人からは買わないとか差別されんのがオチなんだよ!! だから警戒されないように性別偽ってネットでハンドメイド載せてんの!! 実際ネット上での俺、みんなと仲良いしな!」
「す、すみません!」
どうやら俺は彼の中にある怒りのスイッチを押してしまったらしい。目が血走っている。ヤンキー怖い。佐竹さんで少し慣れてるとはいえヤンキー怖い。八神さんは落ち着かせるように言った。
「つまり、真田さんはこのアプリ及びネット上では女性のハンドメイド作家として活動してるため、オフ会には行きたいけど男だとバレるので返事に困っている。という事ですか?」
「……ッス」
幾分か落ち着いたらしい真田さんがぽつりぽつりと話し出す。
「誘ってくれた人、ツカサさんっていうんスけど……最初はお互いの作品に公開コメントで感想書いたりしてて。だんだん話が盛り上がってDMで連絡取るようになって」
「なるほど」
「てかそのツカサさん二十五才の保育士で、なんと男の作家さんなんスよ!!」
「えっ!?」
お、男? あれ、真田さんはハンドメイド作家はほとんどが女性だから浮かないように女だって名乗ってるはずだよな? ちゃんと男の作家もいるんじゃん。話矛盾してないか?
「なんだ。相手が男なら〝実は俺も男でしたすいません〟で済むんじゃないですか?」
「はあああ!? こちとら男で同じ趣味持った貴重な友人逃したくねんだよ!! でもあっち俺のことマジで女だと思ってっから!! 男だってバラしたら俺達の信頼関係が一気に崩壊すんだろーが!? そんくらい分かれや!!」
「すいません! すいませんってば!」
必死に謝って目の血走った真田さんを宥める。どうやら俺は彼の地雷を踏んでしまう質のようだ。
「この人は……ツカサさんは俺と違って。男でも堂々と作品出してるのがかっこいいなって思ったんスよ」
ムスッとした顔で続ける。
「俺が思いつかないようなデザインとそれを実現出来る技術、スゲェ尊敬してんス。直接会って教えてもらいたいって気持ちもあるけど、ずっと騙してたっつー負い目があって。いや……違うな。俺はなにより怖いんだ。否定されたり幻滅されたりしたらと思うと……本当のことを話すのが怖い」
「……真田さん」
「こんな成りでこちゃこちゃ可愛いモン作ってると周りから色々言われんスよ。男子からは似合わないって揶揄われたり嫌がらせされたりしょっちゅうで。女子には割と受け入れられたけど、一部からは気持ち悪いとか言われて引かれてたし」
ははっと寂しげに笑う。真田さんのピアスがゆらりと揺れた。
「だからせめてネットの中では自由になりたくて女だって嘘ついてんスよ。情けねぇんスけどね」
「僕は別におじさんやヤンキーが可愛い物作っててもいいと思いますけどねぇ。それの何がいけないのかまったく理解出来ない。ま、男は基本中身がバカですから。やっかみもあったんでしょうね」
八神さんは珍しく怒ったように言った。きっと、自分の好きな事をしてるだけなのに、真田さんが理不尽な扱いを受けてきたことが許せないんだろう。
「真田さん、オフ会っていうのはその彼と二人で会うんですか?」
「いや、妹も来るらしいッス。てかオフ会って言ってもきっちりしたオフ会じゃなくて。今週末に南町ガーデン・ビルの二階でスノードーム作りのワークショップがあるみたいなんスけど、それに行かないかって誘われてるだけなんス」
「なるほど。……君はそのワークショップに行きたいんだよね?」
八神さんは小首を傾げて彼の意思を確認する。目をあちこちに泳がせながら、真田さんは小さな声で言った。
「そりゃ……行けるなら行きたいッスけど、でも、」
「だよね。よし、じゃあ行っちゃおう!」
ニコリと笑みを浮かべた八神さんの発言に、真田さんの鋭い目付きがさらに上がった。
「いやだから!! 行ったら男だってバレるじゃないッスか!?」
「うん。だからバレないようにすればいいんじゃない?」
「そんなのどうやって……ま、まさか女装させる気なんじゃ!? ムリッスよ!? 俺可愛い物作るのが好きなだけでそういう趣味ないッスからね!?」
「違う違う。そうじゃなくてね、オフ会には君の代わりの女性に行ってもらえばいいと思うんだよね」
「……は?」
「その女性を〝SANA〟にして、君は彼女に同行させてもらえばいい。そうすれば君は正体を明かさないまま憧れの人に会える。向こうも妹さんを連れてくるみたいだし、人数的にはちょうどいいだろ?」
真田さんは迷っているようだった。
「……でも俺の代わりに行ってくれる人なんて見つかります? ある程度話とか分かってもらわなきゃなんないんスけど」
「その心配はしなくていいよ。僕が信頼している女性に頼むつもりだからね」
……あれ。なんだか嫌な予感がするぞ。八神さんの狭すぎる交友関係の中で信頼を寄せている女性なんて、うちの姉ちゃんくらいしか思い浮かばないんだけど。
「俺、一回でいいから友達とこういうイベントに参加してみたかった。でもこんな状態で会っていいのかめっちゃ悩んでて……」
「会って本当の事を話すも良し、そのまま楽しむも良し。これは真田さんにとって一歩踏み出せるチャンスなんじゃないかな? ツカサさんは大切な友達なんでしょう?」
腕を組んでしばらく考え込んでいた真田さんはスマホを手に取ると、決意したように指を動かす。おそらくオフ会の返信をしているのだろう。
「ワークショップ、参加することにしました」
「ええ。良かったですね」
「それで、俺の代わりの人を探してほしいんスけど……大丈夫ッスか?」
「もちろん。大丈夫ですよ」
「迷惑かけてすんません。てか俺が言えることじゃないスけど……探偵事務所って普通こんな依頼受けないんじゃないんスか?」
「ははっ、そうかも。でもね、探偵っていうのは困ってる人を放っておけない性みたいでね」
答えになっていないような答えに、真田さんはクスリと笑ってくれた。
*
「えっ? 私がハンドメイド作家としてさっきのお客さんとワークショップに参加?」
「そうそう。さっきここに来た金髪のお兄さん。その人のため是非モカちゃんに協力してほしいんだよね」
言いながら八神さんは店の新メニュー、塩キャラメルナッツパンケーキを頬張る。これは姉が試行錯誤を重ねて作った自信作だ。
「今からする話はプライバシーを守るため、口外禁止でお願いしたいんだけど」
そう前置きして、八神さんは真田さんの事情を姉に説明した。
「……そうだったんだ。お節介かと思ったんだけど、なんか悩んでたみたいだったから声を掛けたの。でも八神さんの所にちゃんと行ってくれたみたいで良かった」
「うん。だから僕もなるべく悩みを解決させてあげたくて」
「私が紹介した責任は取らなくちゃいけないわよね……分かった。協力するわ」
「ありがとう。さすがモカちゃんだ。当日は四人で行動してもらうけど、僕とケントくんもそのワークショップに参加するからね。何かあったらフォローは任せてよ」
何やら勝手に言っているが、俺はそんな話聞いてないぞ八神さん。姉は俺たちがいると聞いて安心したのか、うんと力強く頷いた。
「あ、でもお店どうしよう……ワークショップって今週末ですよね?」
「たっだいまー!!」
無駄に元気の良い声が響く。鮮やかな黄色と緑が目立つ、サッカーブラジル代表カラーのTシャツに膝丈の半ズボン。足元はビーチサンダル、頭にはサングラスを掛け、こんがりと焼けた素肌に白い歯を溢す男。
「みんな久しぶりだね!! boa tarde todo bem? あ、これポルトガル語でこんにちは、元気だった? って意味! ブラジルってポルトガル語使うんだよ! 知ってた!?」
淀んでいる空気をものともせず、ガラガラとキャリーバッグを引きずって店の中に入ってくる。
「あっ。これお土産ね! サンダル! みんなでお揃いなんだぞっ! あと八神くんにはチョコ! 甘い物好きだから奮発していっぱい買っちゃったーって……わっ! 相変わらず白いなー八神くん!! ちゃんとお日様に当たってる? 向こうは秋冬でもなかなかの暑さだったよ!」
その言葉通り、二人が並ぶとまるでオセロのようだった。俺は隠さず大きな溜息をつく。なんと言っても、このすっかり海外色に染まった腹立たしい男は豆の仕入れに行ったまま数ヶ月間帰って来なかった残念な父親なのだ。
「仕入れのついでにマテ茶も買ってきたの! 今って健康茶ブームだろ? うちのメニューにもお茶系取り入れてみようかと思って!!」
親父の帰還はいつもなら即刻正座の鉄拳制裁案件なのだが、今回はこの都合の良いタイミングだ。一応感謝し、制裁は免除してやろう。
「……ああ。店の問題は解決したわね。一応こんなのでも店主だし。こんなのでも」
姉は腐った牛乳でも見るような目で親父を見る。
「さぁさぁ! さっそく新しい豆を挽くぞ! 新しく考えたオリジナルブレンドも試してみたいし!! 試飲会しよう、試飲会!」
急に賑やかになった店内に、俺と姉の溜息がハーモニーを奏でた。
*
○プロフィール ○作品一覧 ○レビュー
名前:ツカサ
性別:男
職業:保育士
得意ジャンル:アクセサリー、ぬいぐるみ等
メッセージ:男女共に使いやすいアクセサリーを制作しています。皆様の生活に細やかな彩りを添えられますように。
真田さんに教えてもらったアプリで作家検索をしてみたところ、ツカサさんのページはすぐに見つかった。評価は満点の星五つ。人気の作家であることが伺える。作品一覧を見ていくと、ピアスやネックレスにリング、ブレスレットといった定番のアクセサリーに加え、女性が好きそうなヘアアクセサリーやぬいぐるみの画像が載せられていた。
真田さんの物はどちらかというとカラフルで可愛い印象を受けたが、ツカサさんの作品は色使いやデザインがシンプルで大人っぽい。とにかく、二人ともこの界隈ではかなりの人気があるらしい。
ワークショップオフ会はSANA役の姉と、本物のSANAである真田さん、そしてツカサさんとその妹の四人で行くのだが、何しろ姉はハンドメイドについて全くの素人だ。なので、基本くらいは知っておこうとここ数日勉強に励んでいる。成果についてはなんとも言えない。
ちなみにワークショップとは体験型講座の事である。参加者がただ話を聞くだけでなく、実際に体験が出来るというものだ。今回俺たちが参加するのは「スノードーム手作り体験会」という物で、講師の方の話を聞き、教えてもらいながら実際にスノードームを作るらしい。
姉は料理やお菓子作りは得意だが、元々手先はそんなに器用な方ではないのでボロが出ないか今から心配だ。人気ハンドメイド作家SANAの顔に泥を塗る結果にならなきゃいいけど。
「ねぇ賢斗、明日の服はどれがいいと思う?」
タンスから引っ張り出してきたであろう大量の洋服を抱えた姉が、ノックもなしに俺の部屋に入ってきた挙句勝手にファッションショーを始める。
「このワンピースなんてどうかな?」
「あー。いいんじゃない?」
「ちょっと! ちゃんと見てから言ってよ!」
仕方ないのでスマホから正面に視線を移すと、姉が自分の体にワンピースを当てていた。白い半袖シャツの真ん中にベルトが付いていて、そこを境にスカートの生地が紺色に変わっている。似合ってるけど、なんかデート向きって感じがする。
「スカートより、涼しくて動きやすい服装の方がいいんじゃないの。作業するんだし」
「……確かにそうね。じゃあこっちの白シャツにダスティーピンクのプリーツワイドパンツを合わせよっかな。それとももっとシンプルにした方がいいかなぁ?」
うきうきと呪文のような単語を並べる姉は楽しそうだ。おそらく、仕事とはいえ外で八神さんと会えるのが嬉しいんだろう。分かりやす過ぎて溜息が出る。
「姉ちゃん。明日は〝ハンドメイド作家SANA〟として真田さんの憧れの人に会うんだからな。いくらお洒落したって八神さんとデートするわけじゃない。俺たちはあくまでサポートなんだから」
「わ、分かってるわよ! 私はただ相手が抱いてるSANAのイメージを壊さないようにしようと思ってるだけで! 八神さんとデ、デ、デートだなんて思ってないわ!!」
それとなく釘を刺すと、姉は顔を真っ赤にして部屋を出て行ってしまった。う~ん……女心は難しい。
*
灼熱の太陽がこれでもかと降り注ぐとある日の午後。俺と八神さんは彼らの待ち合わせ場所である駅前公園の噴水……付近のベンチにぐったりと座っていた。
少し先にある噴水の前には、それなりにお洒落した姉と遠目でも目立つ金髪ヤンキーな真田さんが相手の到着を今か今かと待っている。
今日はワークショップオフ会の当日だ。
真田さんとはうちの喫茶店で何回か打ち合わせしたし、その間に姉とも結構仲良くなってたし、事前準備は万端だ。それに、ハンドメイドが好きな男の友人を連れて行くとツカサさんに伝えたところ、その作家に会えるのも楽しみだと返事が来たらしいので、もしかしたら真田さんも本当の事を打ち明けられるかもしれない。
「暑い……」
戦いに破れて灰になりかけたボクサーのようにがっくりと項垂れた八神さんが呟く。俺だって出来ることならエアコンの効いた涼しい部屋で夏の全国高校野球大会をテレビ観戦してたかった。そんな文句を飲み込んで、俺は八神さんにお馴染みのマグボトルを手渡す。
「もうすぐ時間ですからもう少し頑張りましょう。ほら、水分補給して」
受け取ると、八神さんは氷と共に入れてきたお茶をごくごくと飲んだ。日陰を選んで座っているとはいえ、地面から来る熱気に息が詰まりそうだ。
「ケンティーくん……あれ」
今にも消えてしまいそうなか細い声を出して指を差す。八神さんの細長い指の先には、黒の半袖ジャケットにダークグレーのテーパードパンツを着こなした背の高い男性と、ストライプの入った爽やかな水色のワンピースがよく似合う可愛らしい女性。その二人組が噴水に向かってきょろきょろしながら歩いている。
目印の金髪を見つけた二人は、姉と真田さんの元に駆け寄った。……おお。どうやらあのお洒落男子がツカサさんのようだ。
真田さんは〝俺のイメージでは、ツカサさんは可愛いものが似合う系の人なんじゃないかなって思うんスよね。ほら、アイドルにもいるじゃないですか、ハートとかうさぎとか似合うあざとい系男子。大人っぽいデザインなのは本当はこうでありたいっていう理想なんじゃないかなぁって睨んでるんスよね〟なんて長々と語っていたが、ツカサさん普通にスタイリッシュなイケメンじゃねーか。
無事合流したのを見届けると、灰になって今にも吹き飛ばされそうな八神さんを連れて南町ガーデン・ビルへと向かった。歩いて五分の場所で助かった。これ以上動いたら二人とも焼け死ぬ。
受付を済ませ、一足先に会場の中に入った。室内は冷房がよく効いていて外に比べるとかなり涼しい。ああ、ここが天国か。
会場の中にはもうすでに何人かが集まっていた。夏休みの宿題消化で来たのであろう親子連れ、仲の良い老夫婦、女子の友達同士で来た中学生。ワークショップには幅広い年齢の方々が参加するみたいだ。
くっつけられた作業用の机が三つのブロックに分かれているので、俺たちは空いていた左側の席に座る。
「あー……ありますよね」
「そうなんですよ。俺も分からなくて」
ぎこちない会話が聞こえて入口に目をやると、そこには案の定オフ会四人組の姿があった。まだ会って数分じゃあ、打ち解けられなくて当たり前だ。
先頭で入ってきた姉ちゃんと目が合うと、何故かギロリと睨まれた。その後ろには不安そうな表情の真田さん、ツカサさんと妹さんが続く。姉は迷う事なく俺たちの座っているブロックに近付くと、「ここ空いてますか?」としらじらしく質問をし、返事をする前に俺の隣に座った。
「すみません、失礼します」
言いながら、真田さんたちは向かい側の三つの席に座る。ぺこりと礼をした妹さんのスカートがふわりと揺れた。……ああ、なるほど。昨日俺が動きやすい服にしろって言ってこの服にしたけど、スカートでも良かったじゃないかっていう無言の訴えか。それなら最初から俺に意見を求めるなよ。やはり女心は分からない。
「お集まりの皆さん初めまして。講師の阿部です。今日はお忙しい中参加して頂きありがとうございます」
エプロンを付けた優しそうな女性が挨拶をし、今日の予定とスノードームについて説明を始める。
スノードームとは、簡単に言うと観賞用のインテリア雑貨のことだ。作り方は簡単で、丸い瓶やドーム型の瓶に可愛いミニチュアフィギュア、ラメパウダーやビーズ等を入れ、グリセリン、水、液体のりと言った透明な液体を注いで接着剤で蓋をする。なんと、百均の材料でも出来てしまうという優れ物だ。
瓶を動かすと液体の中のパウダーがゆっくりと動き、キラキラした雪のように見えることから日本ではスノードームと呼ばれお土産に人気の商品だ。
一説には、十九世紀前半にペーパーウェイト、つまり文鎮として使われたのが始まりだと言われている。その後、一八八九年に行われたパリ万博でエッフェル塔をモチーフにしたスノードームを販売したところ話題になり、世界中に広まったという。
以上、阿部さんの講義で知った情報だ。
「今回、皆さんには『夏』というテーマで作って頂こうと思います。分からないことがあったらどんどん聞いてくださいねー!」
各自の席にはプラスチック製の透明な球と台座が一つずつ用意されている。組み立てると占い師がよく使う水晶玉のような形になるのだろう。ブロックごとの机には精製水、グリセリンと書かれた液体ボトルと接着剤、ビーズやパウダー、ホログラム、ドライフラワー、人や動物、建物のフィギュアが所狭しと並んでいた。
この中から好きなものを選び、自分だけのオリジナルスノードームを作るらしい。
「夏をテーマにするのかぁ。どれを選べばいいか迷っちゃうなぁ~」
並べられたパーツを物珍しそうに見ながら八神さんは言った。涼しい環境のおかげでHPはなんとか回復したらしい。
「皆さんはこういうの作るの得意なんですか?」
そのまま上手い具合に話を振る。
「え? ああ、えっと……そうですね。なんていうかその、はい」
ツカサさんは切れ長の目でチラリと妹の方を見てからしどろもどろに答えた。まだ緊張しているのだろうか。
「そうなんですか。僕はこういった物を作るのは初めてでして。なんせ今日は甥の宿題のために一緒に参加したんですよ。ね、ケントくん」
みんなの視線が俺に集中する。下から上に目を動かすと、各々の頭に疑問符が浮かんだのが手に取るように分かった。小学生の自由研究なら分かるけど、この人高校生くらいだよね? と顔に書いてある。俺もそう思う。
隣では姉ちゃんがぷるぷると震えながら必死に笑いを堪えていた。腹立たしい。くそ、八神さんめ!! 高校生の宿題と小学生の宿題を同レベルで考えるなよ!! もっと違う参加理由にしてくれ!!
「あ、申し遅れましたが僕は八神と言います。こっちは甥の賢斗」
「……どーぞよろしく」
「っ、そうなんですね。実は私たちハンドメイドが趣味なんです。いつもはネットでやり取りしてるんですけど、今日はみんなで作品を作りたくて参加したんですよ。私はサナと申します」
「樹ッス」
「ツカサです」
「ツカサの妹で、トオルといいます」
身バレ防止のためか、みんな本名は明かしていないようだ。
「ハンドメイドが趣味なんですか? それは心強い。良かったら色々と教えてくださいね」
「いえいえ。俺たちで良ければ気軽に聞いて下さい」
ツカサさんは人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。隣に座っている真田さんは緊張しているのか顔が強張っている。見た目がヤンキー風なので、そんな顔をされると迫力が増すからやめてほしい。
「ハンドメイドって、普段はどんな物を作ってるんですか?」
並べられたパーツを見ながら八神さんが言った。
「私はアクセサリーが多いですかね。可愛いものを作るのが好きなんです」
事前に真田さんから聞いた情報をフルに活用して受け答えをする姉のコミュ力は接客業の賜物だろう。
「私たちが使ってるアプリでは作った物を販売出来るんですけど、ツカサさんって超人気の作家さんなんですよ! 私も作品のファンでずっと憧れてたんです! だから今日お会い出来るのがとっても楽しみで!」
「わぁ……ありがとうございます」
姉ちゃんの前に座っていたトオルさんが頭を下げる。
「え?」
「あ、兄の! 兄の作品のファンって言ってくれて嬉しかったので……ありがとうございます」
トオルさんは照れているのか、頬を赤くしながら言った。
「いえいえ。本当のことだもの。ね、ツカサさん!」
ツカサさんは姉ちゃんの問いかけに答えず、ぼーっとした様子で姉の顔ばかり見ている。
「……ツカサさん?」
「えっ? あ、ハイ! いえ! 俺なんかのは大したことないですから! ていうか俺もサナさんのファンです!! ピアスが一番好きです!」
「えっと、ありがとうございます」
姉は苦笑いを浮かべながら答えた。視界の端に物凄く嬉しくてニヤけそうなのを我慢して、とんでもなく破壊力のある顔になっている真田さんが映ったが無視しようと思う。
俺はパーツが入ったケースから小さいスイカのフィギュアを手に取った。
それにしても、ドッキリで騙す仕掛け人っていつもこんな気持ちなんだろうか。罪悪感からなのか、ものすごく居心地が悪い。
「あ、スイカも夏らしくていいですね」
トオルさんが俺の手元を見ながら言った。
「え? ああ。なんとなく手に取ったんですけど、これ見た時思い出したんですよね。家族で海行ってスイカ割りしたなって。小さい頃に一回だけだけど」
うちは喫茶店をやっているので、長期休暇中に家族で旅行や遊びに出掛けるなんてことはほぼなかった。だけど唯一、俺が小学生になったかならないかの時、家族で海に遊びに行ったことがある。家族……生きている母親と一緒に行った最初で最後の旅行だ。そこでやったスイカ割りは姉や俺の力では割れなくて、最終的に親父が割ったことをよく覚えている。
「そうやってぱっと頭に浮かんだもので作るのも楽しいと思います。すごく考えて作った物より、そっちの方が案外上手くいったりするし」
「なるほど」
「それに、思い出を形にするって素敵だと思いますよ」
「……ありがとう、ございます」
なんだか照れくさくなってポリポリと頬をかいていると、隣から悩んだように唸り声を上げていた八神さんが口を挟んできた。
「うーん。夏って聞いてぱっと浮かんだのはエアコンの効いた部屋でサマーウォーズを読んでる自分の姿なんだけど……これじゃダメかな?」
ダメに決まってんだろこの活字中毒。「あっ、時をかける少女もいいなぁ」いや、本の種類の問題じゃなくて。
「ええと、確かに二冊とも夏になると読みたくなりますよねぇ」
苦笑いを浮かべながらも話を合わせてくれるトオルさんは心優しい。マイペースな八神さんは楽しそうにパーツを選び始めた。今の話の流れで彼がどんなスノードームを作るのかみんな興味がわいたらしく、八神さんが何を選ぶのか様子を伺っている。
あー、これだから八神さんは……。俺は短く溜息をついた。
中に入れるフィギュアが決まったら、水に強い接着剤で台座に固定させる。この台座はスポンジ、小さいサイズだとペットボトルの蓋でも代用出来るそうだ。ホント、夏休みの宿題にピッタリだなこれ。俺も小学生の時に知ってたらやったのになぁ。そしたら最終日の終わらない宿題地獄も少しは楽になってただろうに。あの地獄を味合わないためにも、夏休みの宿題は計画的に進めることを全国の小学生に進言したい。経験者は語る、だ。
おっと、思考がすっかり逸れてしまった。ちゃんと姉ちゃんと真田さんのサポートに集中しないと。俺は慌てて周りの様子を確認する。
液体に入れるラメパウダーやホログラムを真剣に選んでいる真田さんの隣には、彼の横顔をチラチラと盗み見るトオルさんの姿があった。……もしかして何か取りたい物があるけど真田さんが怖くて言い出せないのだろうか。トオルさん、百合の花が似合いそうな清楚系美人だもんなぁ。ヤンキーに話かけるのは怖いよなぁ。真田さんも話せば良い人なんだけど、損するタイプだ。
「あ、あの!!」
ごちゃごちゃ考えているうちに、トオルさんが大きな声を出した。
「……は、い?」
驚いた真田さんが気の抜けたような返事をする。キッと視線を合わせるように上を向いたトオルさんはそのまま続ける。
「そっ、そのピアス可愛いですね!!」
「えっ?」
真田さんは自分の耳たぶを触る。
「あ、これッスか? これは俺……っじゃなくて! サ、サナさんに貰ったもので!」
「やっぱり!!」
その答えに、トオルさんはパッと顔を輝かせた。
「デザインがサナさんっぽいなって思ったんです!! それレジンですよね?」
「そうッス。スクエアパーツに色付けたレジン液を入れて硬化させただけだから簡単……なんスよね? サナさん」
「ん? ああ、そうそうカンタンよ」
「さすがサナさん手先が器用です! グラデーションが綺麗ですねぇ」
大きな目でじっと見られる事に照れたのか、真田さんはふいと顔を逸らした。
「……てか、トオルさんもサナさんのこと知ってたんスね」
「そ、そうです! ほら、お兄ちゃんがCreに登録してるから、私もよくそのサイト見てて。サナさんってすごく可愛いもの作るな好きだなーって思ってたんです!!」
トオルさんは姉ちゃんを見ながら熱弁する。しかし、それは何やら難しい顔をしたツカサさんによって遮られた。
「ちょっといいですか樹さん。ピアスをサナさんに貰ったって事は……お二人はもしかしてそういう関係……?」
「ちょっとお兄ちゃん!?」
「いいえ! 違います!」
姉ちゃんは全力で否定するが、ツカサさんの疑念は晴れない。
「そもそもお二人はどういった経緯で知り合ったんです?」
「それは……私の実家が喫茶店をやってるんですけど、彼はうちのお店の常連なんです。ハンドメイドに興味があるって聞いて仲良くなって」
「喫茶店? じゃあサナさんもそこで働いてるんですか?」
「はい。良かったら今度いらして下さいね」
「是非とも伺わせていただきます!!」
ツカサさんの目が輝いた。……あれ、この感じ。もしかしてツカサさん、姉ちゃんに気があるんじゃないだろうか。ツカサさんは姉ちゃんがサナさんだと思ってるんだからその可能性は有り得るよな? ネットで仲良くしてたんだし。
……いや、ややこしくなりそうなのでこの問題は一旦置いておこう。
隣では、八神さんが右手で口元を覆いながら何かを考えているようだった。ツカサさんとトオルさんを見比べ小さく首を捻るが、すぐさま何事もなかったかのように作業に戻る。え……なんだ今の意味深な行動。気になるけど、さすがに今聞くわけにはいかないので後で確認してみよう。