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「はーい。本日のオススメ、ガトーショコラとキリマンジャロのセットです」
「ありがとうモカちゃん」
運ばれてきた皿を嬉しそうに眺めると、目の前の八神さんはカップに遠慮なく角砂糖を沈めていく。あーあ。せっかくのオススメコーヒーなのに、これじゃあキリマンジャロの風味もコクもあったもんじゃない。俺は小さく溜息をついた。
──旧校舎の幽霊は、姿が見えなくなったらしい。
ある日を境に、ぱったりと見えなくなったのだ。江川さんの探し物が見つかり、もうあの音楽室に行く必要がなくなったのだから当たり前といえば当たり前なのだが、事情を知らない生徒からするとさぞかし不思議なんだろう。
代わりに、こんな噂が流れ始めた。『旧校舎の幽霊は小説家の芳賀恭一郎が除霊したのだ』、と。
芳賀さんが来た日から幽霊が見えなくなったのでこの噂が広まったのだが、みんなの想像力には本当に驚かされるばかりだ。休日に忍んで学校に来たのは生徒に除霊を悟られないためだとか、校舎内を歩き回っていたのは取材のためじゃなく幽霊のなくした楽譜を探していた、とか。まぁ、そのおかげで彼女の正体もバレず幽霊騒動も上手く落ち着いたので、これで良かったのかもしれない。
ちなみにそんな芳賀恭一郎はこないだの取材でアイデアが閃いたらしく、只今絶賛執筆中だ。この調子でいくと次の締め切りまで間に合うだろう。
「そういえば八神さんってピアノやってたんですか?」
「うん? ああ、小さい頃に少しね」
「やっぱり。部位の名前とか扱い方とか妙に詳しかったですもんね」
「あれはピアノをやってる人ならみんな知ってるし大した事じゃないよ。それより、僕の代わりに動いてくれてありがとうねケントくん。鍵盤の蓋、戻すの大変だったでしょ?」
確かに鍵盤蓋は外すのは簡単だったが戻すのはけっこう大変だった。要は、蓋の両端をピアノ本体の両端に付いている金具に差し込めばいいのだが、それを合わせるのが中々難しい。蓋の下に付いた赤いフェルトと鍵盤の両端にある赤いフェルトを一直線になるように合わせれば簡単に入るはずだと言われても、肝心のフェルトがどこにあるのか分からなかったり、重くてずれてしまったり。何度も挑戦してやっと入ったが、次の日には腕が筋肉痛になっていた。
ちなみに、無理して戻そうとしたり焦ってやったりするとピアノに傷がつくので、もしあの中に物を落としてしまった場合は調律師さんを呼ぶのが一番良い方法だそうだ。
「まぁ……ははは」
苦笑いを浮かべていると、店のベルが鳴った。
「八神さん、佐藤くん、待たせてごめんね!」
息を切らせながら入ってきたのは江川奈々さんだ。その表情は以前とは違い生き生きとしている。素早く注文を済ませて俺の隣に座ると、深々と頭を下げた。
「八神さん。先日は無茶な依頼を引き受けてくださってありがとうございました。姉も感謝してます」
「いいのいいの。お姉さんは元気?」
「元気ですよ。今空港にいるんです」
「空港?」
「そう。今日帰ってくる日だから」
江川さんは嬉しそうに言った。なるほど。麻衣さんは彼を迎えに空港に行ったのか。
「って言っても一時帰国だけどね。日本凱旋公演。それが終わったらまた海外。ちゃんと帰国するのはもうちょっと先かな?」
「……しかし、和臣さんもすごい物をプレゼントにしたよなぁ」
あの時、指輪の他に入っていた紙はなんと婚姻届だった。しかも、和臣さんの名前は記入済みで判子まで押してあったのだ。まさに〝人生を賭けた〟プレゼントである。
「指輪は日本にいる時からフランスのお店に頼んでたんですって。オーダーメイド数ヶ月かかるからねぇ、事前に準備してたみたい」
きっと、日本を発つ前にはプロポーズを決めていたんだろう。それなのに突然振られて……和臣さんも辛かっただろうなぁ。
「さすがに婚姻届はビックリしたけど和臣さんらしくて面白かった。それに、あの手紙もお姉ちゃんには効果的だったんじゃないかなぁ」
和臣さんが隠した封筒には、指輪と婚姻届の他にもう一通手紙が入っていた。
〝君と出会ったあの頃、僕はピアノをやめようか悩んでいたんだ。僕の演奏を純粋に聴いてくれる人はいなくて、周りの重圧ばかりがひどくなって、だんだん好きなピアノを楽しく弾けなくなった。何のために続けるのか分からなくなって、もうやめようかと本気で悩んでいたんだ。そんな時、あの音楽室で君に出会った。初めて僕のピアノを聴いた時の感想、覚えてる? あなたの音色はあったかくて優しくて、聴く人の事を想ってるのが伝わるから好きよってはにかみながら言ってくれて。僕の心は救われた。
僕は君がいないとピアノが弾けない。君がいないならピアノを弾く意味がない。全ての演奏は君を想って弾いているから。
だからどうか、これからも僕の傍で一生ピアノを聴いていて下さい。〟
この手紙を読んだ麻衣さんはすぐに日本を発ち、直接和臣さんに会いに行ったそうだ。女性の行動力はすごい。そこで色々と話し合いが行われたのだろう。
「あっ、お姉ちゃんからだ。……和臣さん帰ってきたみたい。ニュースにもなってるって!」
スマホで確認すると、それは既にネットのトップニュースになっていた。〝先日婚約を発表したイケメンピアニスト、若宮和臣が日本凱旋公演のため帰国〟という記事が写真付きで載っている。出迎えに来たファンに笑顔で手を振るその左手薬指には、銀色に光る指輪がしっかりとはめられていた。
「ピアノかぁ。僕も久しぶりに弾いてみようかなぁ」
「結婚行進曲なんてどうです?」
「そうだ! お姉ちゃんたちの結婚式に弾いて下さいよ!」
「いや、さすがにプロの前で付け焼き刃の演奏はちょっと……」
しかし、八神さんがタキシードを着てピアノを弾いている姿を想像すると結構似合ってる。クソ、これだからイケメンは。
姉ちゃんが江川さんのケーキとコーヒーを運んでくる。全員分の飲み物が揃ったところで、ニヤリと笑みを浮かべた八神さんが言った。
「それじゃあ、祝福のカンパイといきますか」
「賛成!」
「大団円、おめでとー!」
俺たちはこの日、コーヒーカップで祝杯を上げた。
第2話.了