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じめっとした生温い風が吹く、土曜日の午後一時。俺が通う緑ヶ丘高校の職員玄関には、『ようこそ! 芳賀恭一郎大先生!』と書かれた横断幕が掲げられている。こんなの一体いつ準備したんだよ、と呆れていると、歓迎ムードの教師陣が将来なりたくない大人代表の二名に向かって挨拶を始めた。
「本日ご案内をさせていただきます、緑ヶ丘高校教諭の西原駿です。よろしくお願いします」
「教頭の山田俊郎です。ようこそおいでなさいました」
「芳賀恭一郎です。こちらは担当の八神」
「八神碧と申します。本日はよろしくお願い致します」
普段とはまったく違い社会人としてきちんと挨拶をしている二人に失礼ながら感動を覚えた。先日のデビュー記念パーティーと同じスーツを着た芳賀さんは、髭もないし髪型もきちんと整えられていて、対面用に飾られた完璧イケメンモードである。いつもの黒スーツを着こなした八神さんと並ぶとホストみたいで、自分が居る場所は学校だよなと何度も確認してしまった。
「いやぁ、学校側には無理を言ってしまって申し訳ありません」
「そんなことありませんよ! あの芳賀恭一郎先生からの申し出ですから、教員一同大喜びで! 校長なんか長年奥様のファンだから喜びようが凄くてね。はしゃぎ過ぎてギックリ腰やっちゃって、今日は来られなくなってしまったんですよ。泣きながら電話が来た時はどうしようかと……」
何してんだ校長。桜子さん本人が来るわけでもないのにはしゃぎ過ぎてギックリ腰って。
「それは大変だ。後で妻のサインでも届けましょうか? お見舞いとして」
「もしご迷惑でなければ是非! ……それと、芳賀先生ご自身のサインを貰ってもいいでしょうか? 私の娘が大ファンでして」
「はは、嬉しいですねぇ。じゃあ後でまとめて彼に渡しておきますよ」
芳賀さんは俺を見ながら言った。
「弟くん、よろしくな」
「……弟?」
「ああ。実は私、彼の家でやってる喫茶店の常連客なんですよ。そこの人気バリスタが彼のお姉さんでね。私は愛称として弟くんと呼んでいるんです」
「なるほど」
愛称で弟とは小説家のくせに随分と安直である。そして教頭、理由になっていないのに納得しないでくれ。
「おっと、申し訳ありませんがこの後他校で会議が入ってまして。私はご案内する事は出来ませんが、何かあったら西原先生になんでも聞いて下さい。なんてったって彼はこの学校の卒業生ですから。我々が知らない事も知ってるでしょう」
「ハードルを上げないでくださいよ教頭」
「はっはっはっ! 西原先生、校長の分もしっかりとご案内するんだぞ! では失礼します」
教頭がいなくなると、西原先生は二人に「GUEST」と書かれたネームプレートを手渡した。
「校舎見学の際はこれを首に下げてください。これさえあれば校内をうろついていても通報されることはありませんから。部活の子たちが来ているので、写真は生徒が写らないように配慮していただければ自由に撮ってもらって構いません」
来客用のスリッパをペタペタと鳴らす子供のような大人二人に、西原先生は丁寧に説明をしていく。
「一応校舎内はご案内する予定ですが、どこか重点的に取材したい場所はありますか?」
「そうですねぇ……旧校舎には入れないんですか?」
いきなり核心を突いた芳賀さんの言葉に俺はドキリとする。西原先生は「旧校舎ですか……」と困ったように言葉を詰まらせた。
「あそこは取り壊しが決まってるので立入禁止なんですよ」
「そうなんですか? 残念だなぁ……実は今日の本命は旧校舎の方だったんですよ。ほら、幽霊の噂があるでしょう? それについてちょっと聞きたくて」
「噂って……もしかして佐藤くんから聞いたんですか? 有名な小説家さんの耳にまで入ってるなんて困ったなぁ。あんなのただの噂話なのに」
とんだ濡れ衣だが仕方ない。俺が言ったことにしてやろう。
「そういう噂話が作品のインスピレーションに繋がるんですよ! 実は、次の作品は学園ファンタジーものにしようかと思ってましてね、そこにちょうど幽霊の話を聞いたものですから。どうか取材させて頂けませんか? お願いします!!」
芳賀さんはがばりと頭を下げる。ていうか、それっぽい事言ってるけど、次の作品とか全然決まってないからな。決まってたら佐竹さんがあんなに怒るはずがない。
「あ、頭を上げて下さい! そこまでおっしゃるなら最後にこっそり回りましょう……校長には内密に。じゃないと俺のクビが飛んじゃうんで」
「ありがとうございます!」
「じゃあ行きましょうか」
資料の撮影用にと持たされたカメラを手にした八神さんは、西原先生の様子を観察するようにじっと見ていた。
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「西原先生!」
二年の教室を見ている途中に聞こえてきたソプラノ声。それは江川さんのものだった。江川さんは息を弾ませて俺たちの前に立つ。
「どうした?」
「小説家の芳賀恭一郎先生が取材に来るって聞いて! 大ファンなんです! 私も一緒に案内させて下さい!!」
「いや、それはちょっと……」
「お願いします!」
渋る西原先生に、芳賀さんはにこやかに言った。
「いいじゃないか。彼女にも案内してもらおう」
「しかし、」
「君の名前は?」
「江川奈々です」
「江川さんか。よろしくね」
事前の打ち合わせ通りに芳賀さんがうまくアシストしてくれたおかげで無事に江川さんと合流出来た。
──さて。今のところ順調に進んでいるが……ここからどうやって音楽室に行くつもりなんだ八神さん。この状況じゃ二手に分かれるのも単独行動も難しい。だいたい、昨日は探偵ぶって〝隠し場所の見当はついてる〟なんて言ってたけどあれは本当だろうか。手掛かりといえば江川さんの話と手紙くらいだけど……ん? ていうか八神さんの顔色悪くないか? そういえばさっきから一言も喋ってないし足元もちょっとフラフラしてるし……あ、これヤバいな。
「西原先生すみません! ちょっと休憩とっていいですか!?」
「休憩?」
「実は八神さん、貧血持ちの病弱体質で。今ちょっとヤバイ状態じゃないかと……」
カメラを持ってぼーっと立っている八神さんの顔色を見た西原先生が慌て出す。
「えっ、顔白っ!? だ、大丈夫ですか!? 保健室に行きます!?」
「いや、どこかで座って休めれば大丈夫だと。飲み物買って行っても大丈夫ですか?」
「じゃあ社会科準備室に行こうか。コーヒーぐらいなら出せるよ!」
「出来ればお菓子もあると助かります」
「探してみるよ!!」
俺たちは走り出した。