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 糖分を摂取してようやく体調が落ち着いた八神さんは、来客用のテーブルを挟んで江川さんと向かい合う。

 俺は普段まったく使われていないキッチン兼給湯室で、事務所唯一の来客用カップに珈琲を淹れる準備をしていた。これでも喫茶店マスターの息子なので淹れ方はそれなりに知っている。お湯がわくのを待っていると、二人の会話が聞こえてきた。

「初めまして、探偵の八神碧です。初対面なのに醜態を晒しちゃってごめんね。ええと、君はケントくんのお友達? それとも彼女?」
「あっ、いえ! 私は江川奈々といいます。佐藤くんとは……同じ高校の同級生なんです」

 うん、彼女の言ってることは正しいんだけどなんだろう、この若干傷付く感じ。

「風の噂で佐藤くんに探偵をやってる知り合いがいるって聞いて、紹介してくれるように頼んだんです。そしたらここに案内してくれて……」
「なるほど。君は何か困ってることがあるんだね? それも、探偵に依頼しなきゃならないほどの」
「……はい」

 俺は二人の前に淹れたての珈琲を静かに置いた。依頼の内容は聞いちゃいけないだろうと思い戻ろうとすると「待って」と江川さんに止められる。

「もしよかったら佐藤くんにも聞いてほしいの。……協力者は多い方がいいから」

 そう言われ、少し迷ったが俺は八神さんの隣に腰を下ろす。江川さんは鞄から一通の封筒を取り出し、乗せてあった本を超特急で片付け無理やりスペースを空けたテーブルに広げた。

「これを読んで下さい」

 俺と八神さんは白い便箋を覗き込む。黒のボールペンで書かれた〝江川麻衣様〟から始まるその手紙は、内容的にこの女性にフラれた男からのものだろうと予想がついた。名字からして江川さんの肉親に宛てたものだということも。しかしこの〝若宮和臣〟って名前、どこかで聞いたことがあるような気がする。……今はちょっと思い出せないけど。

「この手紙は二ヶ月前、お姉ちゃんに届いた物です。元彼からの手紙なんですけど、お姉ちゃんはこれを読んでません」
「え?」
「実は……郵便受けに入ってたから私がお姉ちゃんに渡したんですけど、捨ててくれって突き返されちゃって。でもそんなこと出来ないからお姉ちゃんの机に置いてたんです。そしたら本当にゴミ箱に捨てられてるの見つけて、私慌てて拾って。それで……二人に悪いとは思いつつ中身を読んじゃったんです」

 江川さんは悲しそうに眉尻を下げる。

「お姉ちゃんの元彼、差出人の若宮(わかみや)和臣(かずおみ)は、期待の若手ピアニストなんです。今はコンサートで海外を周ってて日本にはいません」

 ああ! どっかで聞いたことあると思ったらそれか。確か、前に国際コンクールで優勝したイケメンピアニストってテレビかなんかで紹介されてた気がする。

「お姉ちゃんと和臣さんは高校の同級生で、二年生ぐらいの時から付き合ってたんです。この六年大きなケンカもないし本当にお似合いのカップルだった……なのに」

 はぁ、と短い溜息が漏れた。

「半年前、和臣さんの海外ツアーが決まったあたりにお姉ちゃんが突然別れたとか言い出して。理由を聞いても何も答えてくれないし、和臣さんもそのまま海外に行っちゃうし。残念だけど二人の問題だから私は何も言えない、仕方ないなって思ってたんです。でも、この手紙を読んで考えが変わって……だってこれを読むと和臣さんまだお姉ちゃんのこと好きじゃないですか。ていうかお姉ちゃんだって本当は好きなくせに意地張って。二人には話し合いが必要だと思うんです。だから私、和臣さんが隠したっていうお姉ちゃんへのプレゼントを探す事にしたんです。でも全然見つからなかった。時間ばかりが過ぎて……これじゃとても間に合わない」

 俯いていた顔を上げ、真っ直ぐに八神さんを見つめた。

「お願いです。和臣さんのプレゼントを探すため、あなたの力を貸してほしいんです」

 八神さんは彼女と目を合わせたまま、にっこりと微笑んだ。

「分かりました」
「え?」
「その依頼、お引き受けします」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。もちろんです」
「ありがとうございます! 良かったぁ。ふざけるなって断られるかと……あ。そういえば料金はいくらですか? 私バイトしてるんでちゃんと払えますよ!」
「ああ、それはいらないよ」
「ええっ!?」
「ケントくんの友達からお金を取るわけにはいかないからね」
「で、でも」

 八神さんはふむ、と考えるような仕草をすると、彼女の気持ちを汲んだのか妥協案を提示した。

「じゃあ、お代はさっきのチョコレートってことで。なんてったって命を助けてもらったんだから。あのチョコはお金に変えられない価値があるよ」

 ね? と小首を傾げる。江川さんはぽかんと口をあけて見ていたが、観念したようにふっと笑うと「すみません、ありがとうございます」と頭を下げた。

「それより、いくつか気になった点があるんだけど聞いてもいいかな?」
「あっ、はい」
「まず、手紙に書かれていた音楽室の場所。探しても見つからなかった、という事は奈々さん。あなたは音楽室の場所を知ってるんだね?」
「はい。緑ヶ丘高校の旧校舎の音楽室です。二人ともうちの学校の卒業生なので。出会った時の話はお姉ちゃんから聞いてましたから、間違いないです」

 ……ん? うちの学校? 旧校舎の音楽室、探し物といえば最近よく聞くフレーズだ。

「なるほど。じゃあ次、さっき奈々さんが言った〝間に合わない〟っていうのはどういう意味かな?」
「実は、その旧校舎が今年の夏休み中に取り壊されることが決まったんです。そうなったらもう二度と探せない……だからその前に見つけなくちゃいけないんです」
「夏休み中に工事が始まるとすると確かにあまり時間がないね。早めに動いた方が良さそうだ」
「はい。それと……ちょっと面倒な事が起きてしまって」
「面倒な事?」
「旧校舎は立入禁止になってるんですけど、先月あたりから私、こっそり忍び込んで探してたんです。そしたら……」

 江川さんはチラリと俺を見る。

「その……旧校舎の音楽室に幽霊が出るって噂が広まっちゃって」
「えええっ!?」

 ここで大声を上げたのは俺である。だってその噂って明らかに今騒がれてる〝旧校舎の幽霊〟の事だよな? ……マジか。目を丸くする俺を見て、江川さんは苦笑いを浮かべる。

「まさか尾鰭(おひれ)がついてあんなに広まるなんて思ってなくて。自分でもビックリしてる」
「ケントくんも知ってるの?」
「知ってますよ。その話、正直かなり広まってます」
「……なるほど。分かった。何か策を考えとくよ」
「あの、佐藤くん。このことは、」
「大丈夫。誰にも言わないから」
「ありがとう」
「それともう一つ。これのことなんだけど」

 八神さんは机に置いてある手紙の一文を指差す。

「この〝シャーペンをなくして慌ててた〟って話、詳しく聞いてる?」
「ああ、それですか。なんか、お姉ちゃんがピアノの上にシャーペン置いてたら取れない場所に落としちゃったらしくて。入学祝いの品なのにどうしようって慌ててた所を、和臣さんが取ってくれたみたいですよ」
「なるほど」
「和臣さんその頃ちょっとスランプ気味で、たまにですけど気晴らしに旧校舎の音楽室でピアノ弾いてたらしいんです。当時は別に立入禁止じゃなかったみたいだし。使う人は少なかったみたいですけどね。で、お姉ちゃんは音楽のテストでピアノを弾くことになってて、一人で練習するために旧校舎の音楽室に行ったんですって。お姉ちゃんプライド高いから練習してる所あんまり見られたくなかったんでしょうね。で、そのシャーペン事件がきっかけで二人は音楽室で頻繁に会うようになって……って! もうこの惚気話何度聞かされた事か!!」

 江川さんは拗ねたように溜息をつく。しかし、その顔はどこか嬉しそうだった。

「あ、でもあのピアノ。本体の裏側や蓋を開けて出てくる板みたいな所まで散っっ々探しましたけど何もありませんでしたよ?」
「……そっか。うん、ありがとう」

 八神さんは何やら考えているようだったが、すぐにいつものふやけた笑顔に戻る。それから軽く世間話をして、江川さんは静かに帰っていった。