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 帰りのHRが終わり、掃除当番をしっかりと終えたあと。


「佐藤賢斗くん」


 靴を履き替えようと下駄箱を開けた瞬間、背後から名前を呼ばれて振り向いた。すると、セミロングの黒髪を耳にかけ、少し照れたような表情で俺を見上げる女子生徒と目が合った。

「突然話しかけてごめんね。今ちょっと時間いい?」

 俺は静かに下駄箱を閉じ、彼女と向かい合う。

「……いいけど」

 放課後、誰もいない下駄箱、可愛らしい女子生徒。
 まるで青春の一ページのようなこの状況に、健全な男子高校生である俺の心臓は(せわ)しなく動き出す。もしかしてこれは告白(アレ)か? まさかの告白(アレ)なのか? 俺にもついに春が来たってことなのか? こんな淡い期待を抱いてしまうのは仕方ないだろう。

「ありがとう。私、四組の江川(えがわ)奈々(なな)。実は佐藤くんに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「うん、そう」

 こくりと頷くと彼女はキョロキョロと辺りを見回す。人がいないのを確認すると、内緒話でもするかのように右手で自身の口元を囲い、背伸びをして俺の耳元に近付いてきた。ふわりとお菓子のような甘い香りが漂う。わぁ、なんていい匂いなんだろう。

「佐藤くん、探偵の知り合いがいるって本当?」
「は?」

 ……探、偵?

 その単語を聞いた瞬間、一気に現実に引き戻される。あー、なるほど。ハイハイハイハイそういうやつね。俺じゃなくて探偵に用があったわけだ。あのヒョロッちくて頼りない、蒼白の貧血探偵に。クソッ! 八神さんめ! 俺のときめきを返せ!

「……いるけど」
「本当!?」

 江川さんはパッと表情を明るくさせる。うん、可愛い。

「あの、もし良かったらその人のこと紹介してくれないかな!?」
「ええと……紹介ってのは人を? それとも何か仕事の依頼?」
「あっ、仕事! 仕事の依頼なの! やましい気持ちはないよ! ほんとだよ!」

 慌てて否定すると、彼女は話を続けた。

「実は……ちょっと相談したいことがあって。でも誰にも言えなくて困ってたの。思い切って探偵に頼んでみようかなって考えてたんだけど、そういう所に依頼するのってなんだか怖いじゃない? 怪しいっていうか胡散臭いっていうか。それに女子高生が行っても相手にしてくれなさそうだし。でも今日、佐藤くんの知り合いに探偵がいるって話を聞いて……知り合いの紹介なら少しは安心出来るかなって思って聞いてみたんだけど……突然すぎたよね、ごめん」

 江川さんは力なく笑った。その表情を見て、彼女が何か真剣に悩んでいることが分かった。俺はさっきの態度を反省すると共に口を開く。

「八神碧」
「え?」
「知り合いの探偵の名前。うち、雑居ビルで喫茶店やってるんだけどさ、そこの二階で探偵事務所開いてる男の人なんだ。ちょっと病弱で変人だけど、仕事はちゃんとやるし良い人だから。直接話がしたいなら案内するけど……どうする?」
「ほ、ほんと!?」
「うん。江川さんの都合の良い日に合わせるし」
「えっと、もし迷惑じゃなかったら今からでもいい?」
「ちょっと待って、今聞いて──」

 スマホを手に取り、いや待てよ考える。八神さんはどうせ本に夢中で電話しても出ないしメッセージを送っても既読すらつかない。だったらこのまま連れてっても構わないだろう。後から文句を言われた時のために、念のためメッセージだけは入れておくが。

「佐藤くん?」
「なんでもない。たぶん大丈夫だから行こっか」

 そう言って俺たちは歩き出す。探偵事務所の案内役とはいえ、女の子と二人で帰るのはなんだかむずがゆかった。





「ここが八神探偵事務所」


 通り慣れた細くて狭い階段を上り、堅苦しい明朝体で書かれた表札が掛けられたドアの前に立つ。

「入るけど……大丈夫?」

 そう声を掛けると、江川さんは緊張しているのか持っていた鞄の紐をぎゅっと握って小さく頷いた。俺はいつものようにガチャリとドアを開け、ズカズカと中に入っていく。

「八神さーん、生きてますか?」

 まずは生存確認だ。これを確認しない限り先へは進めない。

「八神さーん?」

 ……返事はない。相変わらず本だらけの室内を突き進む。一番奥のデスクにぐったりと突っ伏している黒い塊りに近寄り、寝息を確認すると声を張り上げた。

「八神さん! 起きて下さい八神さん!」
「……ん、んん」
「しっかりして下さい! お客さんですよ!」
「……お客さん?」

 八神さんはかろうじて残っていたらしい力でのそりと顔を上げる。その顔色は青いを通り越して緑に近い。

「ひっ!」

 あまりの顔色の悪さに江川さんが小さく悲鳴を上げた。

「さ、佐藤くん、その人大丈夫なの?」
「大丈夫。たぶん極度の睡眠不足と栄養不足が祟った貧血だから」
「……だ、大丈夫なのそれ」

 江川さんはひくりと顔を引きつらせる。うん、気持ちは良く分かる。

「うう……甘い物……糖、分が欲しい」
「ええと、なんかあったかなぁ」
「あ、わ、私チョコ! チョコ持ってます!」

 江川さんは慌てたように鞄の中から一口サイズのチョコレートを数個取り出す。八神さんはすぐ様それを口に入れると「……甘い」と幸せそうににこりと笑った。

 江川さんの顔には、こんな人が探偵で本当に大丈夫なのだろうかという不安がはっきりと描かれていた。