彼の自宅であるオートロック付きの立派なマンション、五階。新築、角部屋、陽当たり良好という好条件な部屋から出てきたのは、エプロンを身に付けた絶世の美女──芳賀桜子だった。俺は目と口を開けたままその場で固まった。


 ……あ、終わったな。


 グレーゾーンをふらふらしていた疑惑が真っ黒へと変わった瞬間である。が、今はそれどころじゃない。桜子さんは大きな目をさらに大きくして、不審者に抱えられた不審者とを見比べる。

「まぁ、どうしたの!?」
「貧血を起こしたみたいで道路で倒れたんだ。愛理ちゃんの知り合いみたいだったからとりあえず家で休んでもらおうと思って連れてきたんだけど……」
「あら?」

 桜子さんが後ろにいた俺の存在に気付いた。

「あなたカサブランカの……萌加ちゃんの弟さんよね?」
「はい、佐藤賢斗です。どうも」
「えっ!? じゃあもしかしてこれ八神さん? あらあら大変! 今お水持ってくるわね。さ、入って入って!」

 広い部屋のリビング。桜子さんが持ってきてくれた水で薬を飲ませ、やわらかいソファーの上に八神さんをそっと寝かせる。顔色はだいぶ悪いが、さっきよりは落ち着いたようだ。しばらく安静にしてれば良くなるだろう。

「いつも主人がお世話になってます。あんなに入り浸ってお店の邪魔になってない?」
「いえ。うちとしても貴重な常連さんですから」
「本当にごめんなさいね。これ良かったら食べて。八神さんにも食べられるようになったらあげてね。彼、甘い物好きでしょう?」

 ことりとテーブルに置かれたのは焼き立てのカップケーキだった。キッチンから甘い匂いがするなと思っていたが、どうやらこれが原因らしい。もしかして桜子さんの手作りだろうか。だとしたら俺、超絶ラッキーじゃね?

「ありがとうございます」
「今練習中で味には自信ないんだけど……いっぱい食べてね」
「はい。いただきます!」

 やはりこれは桜子さんの手作りのようだ。元・大人気女優の手作りお菓子を食べられる機会なんて滅多にないので、なんだかドキドキする。しっかりと味わって食べるぞと俺は心に決めた。

 ……それにしても、他人の家だというのに桜子さんの勝手知り尽くしたこの感じ。彼とは随分親しい間柄のようだ。やはり俺はパンドラの箱をあけてしまったのだろうか。違う意味でドキドキしてくる。

「ほんと遠慮しないで食べて下さいね。うち、今カップケーキが大量にありすぎて困ってるんで」

 トレンチコートの男性が苦笑い混じりで言った。

「あの、ありがとうございました。突然お邪魔してしまってすみません」
「ううん、気にしないで。さっきも言ったけど、困った時はお互い様ですから。でもビックリしましたよ。なんか騒がしいなぁと思って振り向いたら人が倒れてるんだもん」
「ご迷惑おかけしてすみません」
「こら青葉! 人と話す時はサングラスを外しなさい。帽子も! コートも脱いで! 失礼でしょう!」
「分かってるよ。ったく、誰のためにこんな格好してると思ってんだか」

 桜子さんが不審者を叱ると、ぶつぶつと文句を言いながらサングラスを外す。

「えっ!」

 俺は驚きの声を隠せなかった。サングラスを外したその顔はアイドル顔負けのイケメンで……というか、桜子さんにそっくりだったのだ。

「そんなに気をつかわなくてもいいのよ。私はもう一般人なんだし」
「そうは言ったって実際ちょっと前にも週刊誌の記者につけられてただろ? 用心に越したことはないよ。未だに人気はあるんだから」
「あ、あの!」
「ん?」
「大変聞きにくいんですけどその、お二人のご関係は……?」

 二人は不思議そうに顔を見合わせる。

「そういえば紹介してなかったわねぇ。これ、私の弟なの」
「お、弟!?」
「桜子の弟の宮園(みやぞの)青葉(あおば)です。こんな格好でごめんね。ほら、姉さん昔はそれなりに有名だったからさ、マスコミ対策で会う時は変装して会ってるんだよね。引退したとはいえスキャンダルは御法度だし」

 その格好で会ってる方がスキャンダルになりやすいのでは、という俺の考えはおそらく間違っていないだろう。現に俺も浮気相手との密会を疑ってしまったわけだし。この人、ちょっとズレてるのかな。

「ていうか姉さん、これちゃんと分量はかった? 生地が固いし甘すぎるんだけど。胸焼けしそう」
「は、はかったわよ! 失礼ね!!」
「ママはお菓子作り苦手だから仕方ないじゃない。それより青葉くん。私のこれどう? 上手に縫えてる?」

 裁縫箱と布切れを持った愛理ちゃんが青葉さんに聞くと、青葉さんは「うん、上手上手! その調子で縫っていこうか」と笑顔で言った。

「……ところで」

 青葉さんの大きな目が真っ直ぐ俺を捕らえる。

「そちらの方、探偵って言ってましたけど。もしかして俺たちの後をつけてました?」
「いや、それは……」

 答えに詰まっていると、はぁー、と深いため息をついた愛理ちゃんと桜子さんが同時に口を開く。

「どうせ恭一郎さんでしょ」
「どうせパパでしょ」

 その言葉は見事にハモった。これが家族の絆というやつだろうか。悪い意味での。

大方(おおかた)最近の愛理の行動が気になって調べて欲しいとでも頼んだんでしょうね。あなた達まで巻き込んじゃって本当にごめんなさい」
「やっぱり義兄さんに隠すなんて最初から無理な話だったんだよ。あの過保護っぷりは身を持って知ってるだろ?」

 頭の中が疑問符で埋め尽くされている俺に、桜子さんは溜息をつきながら言った。

「もう正直に話すわね。賢斗くん、今度の日曜日に恭一郎さんの小説家デビュー二十年をお祝いするパーティーがあるの知ってる?」
「ああ、はい。一応」
「なら話は早いわ。実はそのパーティーの前にね、家族だけで先にお祝いしちゃいましょうって愛理と計画を立ててたの。もちろん恭一郎さんには内緒のサプライズパーティーよ! でも、家で準備してたらすぐにバレちゃうじゃない? だから、近くに住む弟の家を借りてここで準備してたのよ」
「突然来てしばらく家貸してくれって言われた時は何事かと思ったよ。……まぁ姉さんの突拍子もない行動には慣れてるからいいんだけどね」

 桜子さんは見かけによらず中々押しが強いらしい。やはり姉というのはどこもそんな感じなのだろうか。自分の姉を思い浮かべて、うんうんと頷いた。

「サプライズパーティー、芳賀さんめっちゃ喜ぶと思いますよ」
「でしょう? でもね、もっと喜んでもらうために私たち今とっても頑張ってるのよ」
「でもそれならどうして愛理ちゃんは図書館に通ってたんです? 待ち合わせなんてしなくても、直接ここに来ればいいじゃないですか」
「ああ、それは、」
「……GPSだね」

 八神さんの蚊の鳴くような声が青葉さんの言葉を遮った。