(6)
夏も終わりが近づいているというのに、日差しは鋭い。室内に慣れている皮膚が悲鳴を上げていた。日焼け止めでは防ぎきれない紫外線を避けるように、慌てて日傘を開く。
時刻は午後一時ちょうど。
待ち合わせの時間はたったいまさっき過ぎ去ってしまった。「送れるかも」と聞いていたから、仕方がない。
待ち合わせの時計台のふもとで、ぼんやりと待ち人を待つ。人の波を眺めていると、今日はジャージを着た人が多いということに気が付いた。少し離れたところにある体育館で試合があるのかもしれない。
横を通り抜けていった少女は、今からあの灼熱のアリーナへと向かうのだろうか。胸元に記された見慣れたロゴは、わたしも愛用していた卓球メーカーのもので間違いない。背中に綴られた胸焼けを起こすように暑苦しい決意。軽い足取りは、彼女の若さの象徴だった。
卓球を辞めて、もう二年以上が経とうとしていた。しばらくは喪失感もあったが、受験勉強の忙しさと共にそれは消えていった。ラケットを見れば懐かしいと思う気持ちも確かに存在したし、かつて自分が強かった時代の動画を見ると胸が痛むこともある。
懐かしく、苦い記憶。
わたしにとって、卓球はもう過去の思い出になりつつあった。あのときに感じていたような鮮烈な胸の痛みや闘志に溢れる試合会場の熱さを、鮮明に思い出すことはもはや難しいことになっている。
あの頃のわたしが、今のわたしを見たならば何と言うだろうか。ありえないと信じてもらえないかもしれない。
でも、確実に言えることが一つだけ。わたしは今の自分が割と好きだ。
「果歩さーん! お待たせしたっす」
「遅いよ、樹くん」
樹くんは呼吸を整えようと肩で息をする。彼がこんなに息切れをしているということは、すごく急いでくれたのだろう。
「すみません、部室で同期に絡まれちゃって。言い訳になっちゃうんっすけど…… あれ、果歩さんなんかいい匂いする」
「午前中に調理実習があったからじゃないかな」
今日は鯖の味噌煮とほうれん草のお浸し、それから副菜を数種類調理した。いい匂い、と言っても女の子らしい可愛い香りではない。どちらかと言えば、家庭の匂いがするのだろう。
「やっぱり、大変っすか?」
「うーん、勉強はやっぱり大変だけど。楽しいよ」
「大変になったら言ってくださいね。弁当は楽しみだけど、果歩さんが無理してたら困るんで」
「それは大丈夫、早起きは大変だけど、何を入れるか考えるのってけっこう楽しいんだよ。樹くんこそ、たまには弁当以外のモノ食べたいんじゃない? 私にお金払わなくたって、学食も美味しいよ?」
最近の学食は結構おいしい。この間、カツカレーを食べて感動したところだ。併設したベーカリーにも光るものがある。そのせいで、わたしの皮下脂肪は少し増加してしまった。運動を辞めたことも大きな要因だろう。
「いや、俺は果歩さんの弁当が好きっす。毎日それを楽しみに走ってるっす」
「そっか、それならよかった。ちなみに何が好き? 何が食べたいとかでもいいんだけど……」
「あんまりよくないのは分かってるんっすけど、やっぱり唐揚げがテンション上がるっす。あと、この間は入ってたプチトマトのマリネも美味しかったなぁ」
「そっか、じゃあ今度また作るね。唐揚げも、楽しみにしててよ」
そう言うと、樹くんは分かりやすく表情をやわらげ、ガッツポーズを決めた。
結局、わたしは私立大学に進学した。そしてそこで栄養学を学んでいる。卓球を辞めてから新しくスポーツをすることはなかった。特にしたいと思えるスポーツはなかったし、もうあんなにも苦しい思いをしたくなかった。
でも、今のわたしを構成しているのはやっぱり卓球だと思う。。
あの鮮烈な胸の痛みや闘志に溢れる試合会場の熱さが、いまのわたしの夢を形作った。
――スポーツをする人を支えたい
兄を、樹くんを、雲を掴もうと手を伸ばす人を、わたしは支えてあげたい。
将来的には公認スポーツ栄養士になりたいと思う。だから、まずは管理栄養士になることが第一目標。公認スポーツ栄養士はまだ受験資格すら持ち合わせていないが、参加できるスポーツ栄養の講習会にはなるべく参加しようと努力していた。
勉強は大変だけど、興味がある分野だから苦しくはない。なるべくたくさんのことを学びたい。樹くんにお弁当を作るのも、自分の勉強の一環だ。むしろありがたいくらい。
それに、これは最近のことだけど、
――これからの人生で、もう一度、どこかで卓球に携わることができたなら。卓球をする人を支えられたら。
たまにそんなことを思う日もある。
まだ、明確な輪郭すら描けていない夢だけど。
遠い空に浮かぶ入道雲。
白く柔らかなそれは、青い空に漂う。
姿かたちを変えたとしても、また気が付けば空に浮かんでいる。
なんとなく空に手を伸ばし、掴もうと指を泳がした。
それは近いようで遠く、届きそうで届かない
雲はそういうものなのだ。
「果歩さん、雲に手は届きそうっすか?」
「今はまだ届かないけど、いつかきっと届くよ。だって、あれはそういうものだから」
それが決して届かぬものと知りながら、
わたしたちは空に手を伸ばし、雲を掴む夢を見る。
夏も終わりが近づいているというのに、日差しは鋭い。室内に慣れている皮膚が悲鳴を上げていた。日焼け止めでは防ぎきれない紫外線を避けるように、慌てて日傘を開く。
時刻は午後一時ちょうど。
待ち合わせの時間はたったいまさっき過ぎ去ってしまった。「送れるかも」と聞いていたから、仕方がない。
待ち合わせの時計台のふもとで、ぼんやりと待ち人を待つ。人の波を眺めていると、今日はジャージを着た人が多いということに気が付いた。少し離れたところにある体育館で試合があるのかもしれない。
横を通り抜けていった少女は、今からあの灼熱のアリーナへと向かうのだろうか。胸元に記された見慣れたロゴは、わたしも愛用していた卓球メーカーのもので間違いない。背中に綴られた胸焼けを起こすように暑苦しい決意。軽い足取りは、彼女の若さの象徴だった。
卓球を辞めて、もう二年以上が経とうとしていた。しばらくは喪失感もあったが、受験勉強の忙しさと共にそれは消えていった。ラケットを見れば懐かしいと思う気持ちも確かに存在したし、かつて自分が強かった時代の動画を見ると胸が痛むこともある。
懐かしく、苦い記憶。
わたしにとって、卓球はもう過去の思い出になりつつあった。あのときに感じていたような鮮烈な胸の痛みや闘志に溢れる試合会場の熱さを、鮮明に思い出すことはもはや難しいことになっている。
あの頃のわたしが、今のわたしを見たならば何と言うだろうか。ありえないと信じてもらえないかもしれない。
でも、確実に言えることが一つだけ。わたしは今の自分が割と好きだ。
「果歩さーん! お待たせしたっす」
「遅いよ、樹くん」
樹くんは呼吸を整えようと肩で息をする。彼がこんなに息切れをしているということは、すごく急いでくれたのだろう。
「すみません、部室で同期に絡まれちゃって。言い訳になっちゃうんっすけど…… あれ、果歩さんなんかいい匂いする」
「午前中に調理実習があったからじゃないかな」
今日は鯖の味噌煮とほうれん草のお浸し、それから副菜を数種類調理した。いい匂い、と言っても女の子らしい可愛い香りではない。どちらかと言えば、家庭の匂いがするのだろう。
「やっぱり、大変っすか?」
「うーん、勉強はやっぱり大変だけど。楽しいよ」
「大変になったら言ってくださいね。弁当は楽しみだけど、果歩さんが無理してたら困るんで」
「それは大丈夫、早起きは大変だけど、何を入れるか考えるのってけっこう楽しいんだよ。樹くんこそ、たまには弁当以外のモノ食べたいんじゃない? 私にお金払わなくたって、学食も美味しいよ?」
最近の学食は結構おいしい。この間、カツカレーを食べて感動したところだ。併設したベーカリーにも光るものがある。そのせいで、わたしの皮下脂肪は少し増加してしまった。運動を辞めたことも大きな要因だろう。
「いや、俺は果歩さんの弁当が好きっす。毎日それを楽しみに走ってるっす」
「そっか、それならよかった。ちなみに何が好き? 何が食べたいとかでもいいんだけど……」
「あんまりよくないのは分かってるんっすけど、やっぱり唐揚げがテンション上がるっす。あと、この間は入ってたプチトマトのマリネも美味しかったなぁ」
「そっか、じゃあ今度また作るね。唐揚げも、楽しみにしててよ」
そう言うと、樹くんは分かりやすく表情をやわらげ、ガッツポーズを決めた。
結局、わたしは私立大学に進学した。そしてそこで栄養学を学んでいる。卓球を辞めてから新しくスポーツをすることはなかった。特にしたいと思えるスポーツはなかったし、もうあんなにも苦しい思いをしたくなかった。
でも、今のわたしを構成しているのはやっぱり卓球だと思う。。
あの鮮烈な胸の痛みや闘志に溢れる試合会場の熱さが、いまのわたしの夢を形作った。
――スポーツをする人を支えたい
兄を、樹くんを、雲を掴もうと手を伸ばす人を、わたしは支えてあげたい。
将来的には公認スポーツ栄養士になりたいと思う。だから、まずは管理栄養士になることが第一目標。公認スポーツ栄養士はまだ受験資格すら持ち合わせていないが、参加できるスポーツ栄養の講習会にはなるべく参加しようと努力していた。
勉強は大変だけど、興味がある分野だから苦しくはない。なるべくたくさんのことを学びたい。樹くんにお弁当を作るのも、自分の勉強の一環だ。むしろありがたいくらい。
それに、これは最近のことだけど、
――これからの人生で、もう一度、どこかで卓球に携わることができたなら。卓球をする人を支えられたら。
たまにそんなことを思う日もある。
まだ、明確な輪郭すら描けていない夢だけど。
遠い空に浮かぶ入道雲。
白く柔らかなそれは、青い空に漂う。
姿かたちを変えたとしても、また気が付けば空に浮かんでいる。
なんとなく空に手を伸ばし、掴もうと指を泳がした。
それは近いようで遠く、届きそうで届かない
雲はそういうものなのだ。
「果歩さん、雲に手は届きそうっすか?」
「今はまだ届かないけど、いつかきっと届くよ。だって、あれはそういうものだから」
それが決して届かぬものと知りながら、
わたしたちは空に手を伸ばし、雲を掴む夢を見る。