(4)
 肌を焦がすような日光が、照りつける。夏はもう終わりに近づいているというのに、この暑さは地球温暖化の影響だろうか。
 あまりの暑さに頭がどうにかなりそうで、慌てて大学のカフェテラスに駆け込んだ。アイスコーヒーを注文して、窓際の席に腰を掛ける。ガラス製のコップはすぐに汗をかき、落ちた水滴が机を濡らす。
 その様を眺めていると、席の向かい側に華奢な少女が足を止めた。
「あれ、七星さん。こんにちは。ここにいるの珍しいですね、空きコマですか?」
 足を止めたのは一回の谷美月だ。「谷ちゃん」の愛称で呼ばれる彼女は、ナナが創設した学生団体の二期メンバーでもあった。
「ううん、ちょっと教授に用があって。研究室に寄った帰り。谷ちゃんは空きコマ?」
「はい、そうなんですよ。四限だけ空きコマってなんかムカつきません?」
「一回生はそんなもんだよ。わたしもそうだった。今年頑張ったら、来年は全休も作れちゃうんじゃないかな」
 そう言うと、谷ちゃんは「頑張ります」とあどけなく笑った。
 ナナにとっては可愛らしく無邪気な後輩だ。
「あ、そうだ来週の予定なんですけど、これで大丈夫ですかね」
「ちょっと待ってね。確認する」
 そう言って取り出したスケジュール帳は学生団体の予定を書きこむだけに購入したものだ。分単位、とまではいかないが時間単位で細かく予定が入っている日も少なくはない。
「あー…… うん。大丈夫。でも、直前に商店街の会長さんにアポとってるから少し待たせちゃうかも」
「全然大丈夫です! ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
 谷ちゃんはわたしに憧れて団体に所属を決めてくれたらしい。嬉しいことに、二期生として八人も後輩が入ってくれた。わたしが入学してすぐに立ち上げた団体は、地道な活動のおかげで徐々に軌道に乗りつつある。
「あ、そうだ。谷ちゃん」
「来週のインタビューに同行してくれる?」
「ほんとですか? 絶対に開けておきます」
「うん、ありがとうね。よろしく」
 タイミングよく彼女のスマートフォンが着信を知らせた。彼女に「電話をとってもいいよ」と目で合図する。お辞儀をしてカフェテリアを出て行く彼女を、小さく手を振って見送った。

 ナナは大学に入学して、自身のことを「わたし」と呼ぶようになった。学生団体を創設すると決めたとき、そうすることを自らに義務付けた。
「ナナ」と「わたし」
 同じ人間であるが、それは全く異なる存在
 「わたし」は一人のリーダーとして、仲間たちの統率を取らなければならない。時として、立場の異なる社会人と打ち合わせをする身になった。学生のナナは舐められやすい。そこで「わたし」を演じることにした。自身の一挙一動が団体の未来に影響する。そう自覚してから、立場の重みが心に重くのしかかった。苦しくて、つぶれてしまいそうだった。自我を保つためにナナは「わたし」を作り出した。
 濃くはっきりとした顔立ち。そこに化粧を施せば、舐められるような幼い顔立ちは消え去った。それだけではダメだと、マナーや話し方は経験と座学で補った。
 血のにじむような努力。
 それを自分で語ることは好きでないけれど、客観的に見てもナナはじゅうぶん努力している。

 窓ガラスに映る自分を見つめる。汗で少しだけ乱れた髪を、流れる動作で整えた。
 ナナはもとより顔が良い。器量が良い。頭がいい。人を統率することに長けている。発想が豊か。持ち前の人の好さは、才能だと称されることも少なくない。
 それらすべては、遺伝によるものなのかもしれない。
 汚くて、大キライな実の父親。見たこともないが、父はきっとそういう道の人間なのだろう。そいつから生れた汚いナナは賞賛されるべきではない。ずっとそう思い続けていた。
 見たこともない父。私達の生活を支えてくれていることには感謝している。でも大キライで汚いクソ野郎。
 ガラスに映るナナは、きっと父によく似ている。

 窓の外に広がる空は、青く高い。
 いつか見た大好きな親友が手を伸ばす姿を連想させる。あの日、彼女が伸ばした手は届くことなく宙をもがいた。
 それでも、そんな彼女が綺麗で眩しくて。ナナにとっては果歩の存在そのものが雲のようなものだった。
「汚い」
 かつてナナは、その言葉に呪われた。どれだけ時間が経過しても、その傷が癒えることはないだろう。
 それでも雲のような彼女は、ナナのことを「綺麗」と言ってくれた。大好きで眩しい彼女は、確かにナナを親友にしてくれた。
 それだけでいい。
 もう、それだけで十分だった。
 ずっと欲しかった眩しい雲は、ナナの手を繋いでくれた。

 ナナは父によく似ている。
 でも、ただそれだけだ。
 父から受け継いだ遺伝子を、努力で自分のものにして見せる。ナナはそうできるだけの力がある。
 だって、ナナは雲を掴める人間だから。

 窓ガラスを一面に彩る青い空を見上げる。
 浮かんだ柔らかな雲は、今日も眩しく輝いていた。