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 何の変哲もない無機質なアパートの壁を見つめる。今年の春に一人暮らしを始めたばかりなので、飾り気のない壁だ。そこに、たった二枚の賞状だけが寂しげに肩を並べて飾られている。
『表彰状、中学生の部、準優勝、有井小春殿』
 これは中学二年のときに獲得したもの。この大会の優勝はもちろん夕凪果歩で、私は完敗だった。これを壁にかけたとき、「この大会はもう五年も前のことなのか」と驚かされたことは記憶に新しい。
 結局、これを最後に彼女との再戦は叶わなかった。私はたったの一度たりとも、彼女に勝つことはできなかった。
 この賞状が目に入るたびに強く思う。
 一度だけでいい。一度でいいから勝ちたかった。
 どんな状況でも、どんなちっぽけな大会でもいい。夕凪果歩に勝利した、という事実だけが欲しかった。それだけを夢見てきたと言っても過言じゃない。
 あと少しで、ほんの少しで彼女の背を掴むことができそうだった。やっと掴んだと思ったのに、その夢は指の隙間をすり抜けるように消えてった。
 もう、この世界に彼女はいない。
 もう、二度と届かない。

 静かに吐き出した溜息は、誰もいない部屋に消えていく。アナログ時計の秒針の音だけがやけに大きく響く自室は、やけに冷えて感じる。
 ブー ブー
 スマートフォンのバイブレーションが机を震わせた。腰を上げるのが面倒で、ずぼらだと分かりながらも指先を懸命に伸ばす。
「もしもし。何、お母さん」
「あ、こはるー? まったく、連絡の一つもよこさないんだから。次はいつこっちに帰って来るの? 斎藤コーチがあんたのこと、すっごく心配してたわよ。小春はそっちでうまくやってるか。とか、どの大会に出場しているか、とか。連絡してあげなさいよ。お世話になったたんだから」
「あー、来月にはいったん帰るよ。帰って、十二月の大会に申し込みしなきゃ」
「あら、珍しい。こっちの大会にも顔出すの? そんな大きな大会、あったかしら……」
「ほら、今年から社会人の部に出場できるでしょ」
 電話口で、母は機嫌よく笑い声をあげている。なんだか少し気に食わないが、久ぶりの電話なので目を瞑ろう。
「あんたは、本当に卓球一筋ね。でも、ちゃんと勉強もしてね。留年しても、学費は出せないから」
「わかってるよ。もう電話切るよ。うん、ばいばい」
 一方的に切断した通話画面を閉じて、机の上に放り投げた。

 あぁ、今年もあの季節がやって来る。
『表彰状 高校生の部 有井小春殿』
 高校三年の十二月に開催された葛城カップで、私はついに三連覇を成し遂げた。
 敵なし、とまでは言えないが、割と余裕のある勝利だったというのが感想である。それに、これまでの自身の戦績が認められたことで、無事に関西で一番強豪とされている私立大学へ推薦を貰うことができた。

 灼熱の体育館
 ラバーの独特な匂い
 ピン球を捉えた時の打球感
 たった一瞬の駆け引きの繰り返し
 そのすべてを――私は卓球の全てを愛している。

 次にやってくる社会人の部にも、彼女の名前が記載されることはないだろう。
 この世界に夕凪果歩は、もういない。
 あの背に、私の手が届くことはなかった。
 それは寂しいことだけど、敵は彼女一人だけではない。まだまだ上にはたくさんの実力者がいる。

 雲の上の存在
 この競技を続けている限り、一生それが付きまとうのだろう。
 決して一番にはなれない。
 それでも、一番になりたい。

 私は苦しむと分かっていてもなお、その雲に手を伸ばす。