(2)
「お兄ちゃんのバレー見にいくのもういや。おもしろくないから行きたくない!」
「そんなこと言わないでくれよ。なぁ、果歩……」
駄々をこねるわたしに向けて、お父さんは困った声を出した。お母さんに助けを求める視線を送っているが、助け船は出てこない。
「果歩はおうちで漫画を読むんだもん。お兄ちゃんとお父さんは二人で行ってきたらいいじゃん。果歩は一人でもお留守番できるから」
そう言うと、お父さんはまた眉尻を下げて困っていることを強くアピールした。
わたしが小学二年生に上がってすぐに地域のクラブで活動していたお父さんの影響で、お兄ちゃんもバレーボールを始めてしまった。男性がメインで活動しているチームで、みんな優しくしてくれるけど、何となく居心地が悪かった。
「果歩も一緒にバレーしようよ。楽しいよ? みんな優しいし。絶対、果歩も気に入るって」
「絶対しない。だってボール怖いもん。痛いのもやだ。男の子ばっかりだしさ、絶対にいや」
お兄ちゃんとお父さんは顔を見合わせて、それからわたしのことをもう一度見た。わたしもつい意地になって、そっぽを向いて頬を膨らませる。どうしてわたしがわがままを言って二人を困らせているような雰囲気になっているのだろう。二人のわがままにいつも付き合ってあげているのは、こっちの方だというのに。
……本当は行きたくないんじゃない。二人がわたしをほったらかしにして、ボールを追いかけているのが面白くないのだ。しかし、この鈍い男どもはそれに気が付くことはなかった。
「お家で一人は寂しいぞ? 帰りにアイス買ってやるから、な?」
「いらない。二人で買ってきたらいいじゃん」
「ほら、果歩はまだ小学生だからな? お家で一人は危ないだろ?」
「じゃあ、お母さんと一緒にお留守番するもん」
「そんなこと言うなよ……」
お母さんは、お父さんが休日の土日だけ実家のベーカリーを手伝いに行く。店自体はお母さんの弟さんが継いでくれたのだが、どうしても人手不足が深刻らしい。何度もそう言い聞かせられていたので、わたしはそれをよく理解していた。でも、自分がお休みの日に家に母がいない。それは幼心に面白くないことだった。愛されている自覚はあった。それが仕方のないことだという理解もできていた。それでも、「純粋にわたしのことを優先して欲しい」ずっとそう思っていた。
たまにはお母さんも困ればいいんだ。
そんな気持ちでもう一度、
「お母さんと一緒にお留守番するから、お父さんとお兄ちゃんの二人で行ってきたらいいじゃん。果歩、お母さんのほうが大好きだもん」と口にした。
反応を伺うように横目でお母さんを盗み見る。顎に手を当てて難しい表情をしているので、もしかすると怒られてしまうかもしれない。
しかし、それは杞憂に終わった。
「よし! 果歩。明日はお母さんも一緒に体育館に行くから、一緒に遊ぼうか」
「ほんとう? お母さんも一緒に行くの? じゃあ、果歩も行く!」
「小さい方の体育館の方が空いてたら、そこでなんかしようか」
「うん。体育館シューズ持って帰ってきてよかったぁ」
わたしはさっきまでふてくされていたことなんてすっかり忘れて、お母さんに抱き着いた。
あの日、お店の手伝いは誰がしたんだろう。あの頃はそんなことなんて、気にもならなかった。
卓球という「競技」に出会った日のことは、今でも鮮明に思い出すことができる。
聞き心地の良い軽い打球音。ゴムの独特の匂いが鼻を刺す。大きな音を立てて、誰かが足を強く踏みこんだ。その直後、大きな雄叫びが小体育館内に響き渡る。思わず肩を震わせたが、わたしはそれよりもずっと強い衝撃を感じていた。
これが、卓球……?
呼吸をすることを忘れてしまうほど、わたしは目の前の光景に夢中になっていた。
「ありゃあ、果歩。今日はだめだ。クラブチームの人たちが貸し切りの日みたい」
お母さんはわたしの手を引いて「お父さんたちの方にいこっか」と外に出ようとする。
しかし、わたしはその手を振り払った。
もっとこの空間に居たい。もっとこの競技に触れてみたい。目の前で繰り広げられる戦いは、温泉で家族と行うような生易しいものじゃない。テレビで見るスピードなんかとは比べ物にもならない。
速い、強い、かっこいい。
これが運命だ、と思った。
「お母さん、果歩も卓球する。これがしたい!」
居てもたっても居られなくなり、大きな声で高らかに宣言した。
一瞬だけしん、と静まり返った館内に声がこだまする。近くにいた数人の選手は手を止めて、顔を見合わせて微笑んでいた。
「大歓迎だよ!」
一番近くの台でラケットを振っていたお兄さんが満面の笑顔を浮かべて近づいてくる。わたしは人見知りを最大限に発揮して、お母さんの後ろに隠れた。視線だけをお兄さんに向けて、動向を見守る。服の袖を掴む指は小刻みに震えていた。
当時はなぜ震えているのかわからなかったが、今となればその答えは明確だ。あれは武者震いだったのだ。嬉しくて、立ち止まっていることがもどかしくて震えていたのだ。
「お嬢ちゃんは何歳? ここまでは通えるくらいの距離かな? ラケット貸してあげるからやってみるかい?」
わたしはただ黙って頷いた。卓球をしたいという思いと人見知りが葛藤していて、感情の整理が付いていなかった。思わず、目頭が熱くなる。
「いいんですか。こんなにいきなり申しわけありません。ほら、果歩」
涙をこらえるのに必死なわたしの代わりに、お母さんがお兄さんに頭を下げる。お兄さんは「斎藤穂高って言うんだ」とわたしの背丈と同じくらいまで屈んでくれた。
予備のラケットを手渡される。握りしめたラケットは、手の小さなわたしが握るには少し大きすぎた。不格好に握りしめ、見様見真似でラケットを振る。
「ちょっと台の前で振ってみなよ」
そう促されて、指をさされた場所に移動する。そして、再び不格好な素振りを繰り返した。お兄さんはそれに合わせるようにして、ピン球を次々と出してくれる。わたしはただラケットを振り回しているだけだった。しかし、球出しの腕がいいためか、十球に一球くらいの確率でラケットに当たる。それでも、ネットに引っ掛かったり、変な方向へ飛んで行ったり。
今になってその動画を見返すと不格好すぎて笑えてしまう。それでも、あの時は卓球に出会えたことが運命だと、心の底からそう思っていた。
中学生になり、わたしは部活動に所属した。名前だけの幽霊部員。そもそも卓球部自体がそれほど活発でなかった。学校単位で出場する団体戦に憧れが無かったと言えば嘘になるが、別にさほど期待していなかった。クラブチームがあるからそれでいい、そう思っていた。今考えると、それは強がりだったのかもしれない。体育館でわいわいと台を囲み、下手くそな卓球をする同世代の子たちを見て「そんなんだから下手くそなままなのよ」と心の中で悪態をついたこともあった。その度に心の中に生まれる気持ちが悪い何か。あの形容しがたい不思議で不快な感覚。あれはきっと仲間を持つ人たちに対する、嫉妬だったのだ。
わたしはそれを隠すようにひたすら練習をした。
朝は素振り、授業中はイメージトレーニング、夕方にはクラブチームの練習に参加し、夜はプロ選手や自分の試合の動画を見た。
「卓球部は運動部じゃない」
そうほざくやつは山ほどいる。そう言うやつらは一度、自分でプレーしてみればいいのだ。強豪校、もしくは厳しい練習をしているクラブチームで。
卓球界のレジェンド、荻村伊智郎さんは「卓球は百メートル競走をしながらチェスをするみたいなものです」と言い表した。その通りだと思う。一瞬の判断の遅れが致命的なミスにつながる。強い人間ほど、打球が重い。回転は重さになる。これは本当にピン球なのかと疑うレベルには重くネットを超えるように持ち上げることで精一杯になる。その際、ラケットを出す角度を誤れば回転に押し負けてあらぬ方向へと飛んでいく。
卓球は判断力と動体視力、それを支える持久力の戦いだ。
わたしが強くなるのは、当たり前のことだった。自分でもそう信じて疑わなかった。努力をしている。
そして何より、誰よりも卓球が好きだ。
それでも、上には上がいくらでもいる。
それを痛感したのは、初めて出場したブロック大会――中学二年のときに参加した秋の新人戦だった。形だけで所属している学校の部活動から出場した。引率の先生は卓球のことなんて何も知らないおばあちゃん。嫌いじゃないけど、コーチとしては役不足もいいところだ。実質、会場での指導は斎藤穂高コーチが行ってくれていた。
はるばる新幹線で開催地に赴き、広い体育館に足を踏み入れた時の感触はきっと忘れない。
熱気と人の波で蒸し暑くなった体育館のロビー。隅で悔し涙を流す選手。多分、どこかの学校の応援団が黄色い悲鳴のようなものをあげる。
たった一歩。
アリーナと廊下を隔てる扉を超えれば、そこに広がるのは激しい戦場。熱気も気迫も、流れる時間そのものから異なる世界だった。自分の視界に映る全てが色鮮やかに見えたのは、たぶん照明のせいではない。
ここにいる人間はみんな卓球が好きで、努力してきた人間だ。わたしと同じくらい、もしくはそれ以上。
そう思うと気分が高揚した。武者震いが止まらなかった。
あのときの結果は三回戦敗退。
満足はしていないが、納得はしていた。一生勝てない相手だとは思わなかった。際どいコースに攻める勇気。どこまで高い水準で守り切ることができるか。ストップやフリックで相手を乱す駆け引き。それからフットワークを支えるだけの体力。
自分の努力次第で勝てると思った。敗退はしたが、それよりも充実感で一杯だった。わたしはまだ、今よりもずっと強くなれる。
この道に天井がないことが、とても嬉しかった。
帰り道に見た空はとても高かった。
青くて、眩しくて。思わず手を伸ばしてみたくなった。
雲が掴めそう。
ありえないことだが、本当に届きそうな気がした。
高く手を伸ばし、指先が宙を泳ぐ。
あともう少しだけ、まだ届いてはくれなかった。
「お兄ちゃんのバレー見にいくのもういや。おもしろくないから行きたくない!」
「そんなこと言わないでくれよ。なぁ、果歩……」
駄々をこねるわたしに向けて、お父さんは困った声を出した。お母さんに助けを求める視線を送っているが、助け船は出てこない。
「果歩はおうちで漫画を読むんだもん。お兄ちゃんとお父さんは二人で行ってきたらいいじゃん。果歩は一人でもお留守番できるから」
そう言うと、お父さんはまた眉尻を下げて困っていることを強くアピールした。
わたしが小学二年生に上がってすぐに地域のクラブで活動していたお父さんの影響で、お兄ちゃんもバレーボールを始めてしまった。男性がメインで活動しているチームで、みんな優しくしてくれるけど、何となく居心地が悪かった。
「果歩も一緒にバレーしようよ。楽しいよ? みんな優しいし。絶対、果歩も気に入るって」
「絶対しない。だってボール怖いもん。痛いのもやだ。男の子ばっかりだしさ、絶対にいや」
お兄ちゃんとお父さんは顔を見合わせて、それからわたしのことをもう一度見た。わたしもつい意地になって、そっぽを向いて頬を膨らませる。どうしてわたしがわがままを言って二人を困らせているような雰囲気になっているのだろう。二人のわがままにいつも付き合ってあげているのは、こっちの方だというのに。
……本当は行きたくないんじゃない。二人がわたしをほったらかしにして、ボールを追いかけているのが面白くないのだ。しかし、この鈍い男どもはそれに気が付くことはなかった。
「お家で一人は寂しいぞ? 帰りにアイス買ってやるから、な?」
「いらない。二人で買ってきたらいいじゃん」
「ほら、果歩はまだ小学生だからな? お家で一人は危ないだろ?」
「じゃあ、お母さんと一緒にお留守番するもん」
「そんなこと言うなよ……」
お母さんは、お父さんが休日の土日だけ実家のベーカリーを手伝いに行く。店自体はお母さんの弟さんが継いでくれたのだが、どうしても人手不足が深刻らしい。何度もそう言い聞かせられていたので、わたしはそれをよく理解していた。でも、自分がお休みの日に家に母がいない。それは幼心に面白くないことだった。愛されている自覚はあった。それが仕方のないことだという理解もできていた。それでも、「純粋にわたしのことを優先して欲しい」ずっとそう思っていた。
たまにはお母さんも困ればいいんだ。
そんな気持ちでもう一度、
「お母さんと一緒にお留守番するから、お父さんとお兄ちゃんの二人で行ってきたらいいじゃん。果歩、お母さんのほうが大好きだもん」と口にした。
反応を伺うように横目でお母さんを盗み見る。顎に手を当てて難しい表情をしているので、もしかすると怒られてしまうかもしれない。
しかし、それは杞憂に終わった。
「よし! 果歩。明日はお母さんも一緒に体育館に行くから、一緒に遊ぼうか」
「ほんとう? お母さんも一緒に行くの? じゃあ、果歩も行く!」
「小さい方の体育館の方が空いてたら、そこでなんかしようか」
「うん。体育館シューズ持って帰ってきてよかったぁ」
わたしはさっきまでふてくされていたことなんてすっかり忘れて、お母さんに抱き着いた。
あの日、お店の手伝いは誰がしたんだろう。あの頃はそんなことなんて、気にもならなかった。
卓球という「競技」に出会った日のことは、今でも鮮明に思い出すことができる。
聞き心地の良い軽い打球音。ゴムの独特の匂いが鼻を刺す。大きな音を立てて、誰かが足を強く踏みこんだ。その直後、大きな雄叫びが小体育館内に響き渡る。思わず肩を震わせたが、わたしはそれよりもずっと強い衝撃を感じていた。
これが、卓球……?
呼吸をすることを忘れてしまうほど、わたしは目の前の光景に夢中になっていた。
「ありゃあ、果歩。今日はだめだ。クラブチームの人たちが貸し切りの日みたい」
お母さんはわたしの手を引いて「お父さんたちの方にいこっか」と外に出ようとする。
しかし、わたしはその手を振り払った。
もっとこの空間に居たい。もっとこの競技に触れてみたい。目の前で繰り広げられる戦いは、温泉で家族と行うような生易しいものじゃない。テレビで見るスピードなんかとは比べ物にもならない。
速い、強い、かっこいい。
これが運命だ、と思った。
「お母さん、果歩も卓球する。これがしたい!」
居てもたっても居られなくなり、大きな声で高らかに宣言した。
一瞬だけしん、と静まり返った館内に声がこだまする。近くにいた数人の選手は手を止めて、顔を見合わせて微笑んでいた。
「大歓迎だよ!」
一番近くの台でラケットを振っていたお兄さんが満面の笑顔を浮かべて近づいてくる。わたしは人見知りを最大限に発揮して、お母さんの後ろに隠れた。視線だけをお兄さんに向けて、動向を見守る。服の袖を掴む指は小刻みに震えていた。
当時はなぜ震えているのかわからなかったが、今となればその答えは明確だ。あれは武者震いだったのだ。嬉しくて、立ち止まっていることがもどかしくて震えていたのだ。
「お嬢ちゃんは何歳? ここまでは通えるくらいの距離かな? ラケット貸してあげるからやってみるかい?」
わたしはただ黙って頷いた。卓球をしたいという思いと人見知りが葛藤していて、感情の整理が付いていなかった。思わず、目頭が熱くなる。
「いいんですか。こんなにいきなり申しわけありません。ほら、果歩」
涙をこらえるのに必死なわたしの代わりに、お母さんがお兄さんに頭を下げる。お兄さんは「斎藤穂高って言うんだ」とわたしの背丈と同じくらいまで屈んでくれた。
予備のラケットを手渡される。握りしめたラケットは、手の小さなわたしが握るには少し大きすぎた。不格好に握りしめ、見様見真似でラケットを振る。
「ちょっと台の前で振ってみなよ」
そう促されて、指をさされた場所に移動する。そして、再び不格好な素振りを繰り返した。お兄さんはそれに合わせるようにして、ピン球を次々と出してくれる。わたしはただラケットを振り回しているだけだった。しかし、球出しの腕がいいためか、十球に一球くらいの確率でラケットに当たる。それでも、ネットに引っ掛かったり、変な方向へ飛んで行ったり。
今になってその動画を見返すと不格好すぎて笑えてしまう。それでも、あの時は卓球に出会えたことが運命だと、心の底からそう思っていた。
中学生になり、わたしは部活動に所属した。名前だけの幽霊部員。そもそも卓球部自体がそれほど活発でなかった。学校単位で出場する団体戦に憧れが無かったと言えば嘘になるが、別にさほど期待していなかった。クラブチームがあるからそれでいい、そう思っていた。今考えると、それは強がりだったのかもしれない。体育館でわいわいと台を囲み、下手くそな卓球をする同世代の子たちを見て「そんなんだから下手くそなままなのよ」と心の中で悪態をついたこともあった。その度に心の中に生まれる気持ちが悪い何か。あの形容しがたい不思議で不快な感覚。あれはきっと仲間を持つ人たちに対する、嫉妬だったのだ。
わたしはそれを隠すようにひたすら練習をした。
朝は素振り、授業中はイメージトレーニング、夕方にはクラブチームの練習に参加し、夜はプロ選手や自分の試合の動画を見た。
「卓球部は運動部じゃない」
そうほざくやつは山ほどいる。そう言うやつらは一度、自分でプレーしてみればいいのだ。強豪校、もしくは厳しい練習をしているクラブチームで。
卓球界のレジェンド、荻村伊智郎さんは「卓球は百メートル競走をしながらチェスをするみたいなものです」と言い表した。その通りだと思う。一瞬の判断の遅れが致命的なミスにつながる。強い人間ほど、打球が重い。回転は重さになる。これは本当にピン球なのかと疑うレベルには重くネットを超えるように持ち上げることで精一杯になる。その際、ラケットを出す角度を誤れば回転に押し負けてあらぬ方向へと飛んでいく。
卓球は判断力と動体視力、それを支える持久力の戦いだ。
わたしが強くなるのは、当たり前のことだった。自分でもそう信じて疑わなかった。努力をしている。
そして何より、誰よりも卓球が好きだ。
それでも、上には上がいくらでもいる。
それを痛感したのは、初めて出場したブロック大会――中学二年のときに参加した秋の新人戦だった。形だけで所属している学校の部活動から出場した。引率の先生は卓球のことなんて何も知らないおばあちゃん。嫌いじゃないけど、コーチとしては役不足もいいところだ。実質、会場での指導は斎藤穂高コーチが行ってくれていた。
はるばる新幹線で開催地に赴き、広い体育館に足を踏み入れた時の感触はきっと忘れない。
熱気と人の波で蒸し暑くなった体育館のロビー。隅で悔し涙を流す選手。多分、どこかの学校の応援団が黄色い悲鳴のようなものをあげる。
たった一歩。
アリーナと廊下を隔てる扉を超えれば、そこに広がるのは激しい戦場。熱気も気迫も、流れる時間そのものから異なる世界だった。自分の視界に映る全てが色鮮やかに見えたのは、たぶん照明のせいではない。
ここにいる人間はみんな卓球が好きで、努力してきた人間だ。わたしと同じくらい、もしくはそれ以上。
そう思うと気分が高揚した。武者震いが止まらなかった。
あのときの結果は三回戦敗退。
満足はしていないが、納得はしていた。一生勝てない相手だとは思わなかった。際どいコースに攻める勇気。どこまで高い水準で守り切ることができるか。ストップやフリックで相手を乱す駆け引き。それからフットワークを支えるだけの体力。
自分の努力次第で勝てると思った。敗退はしたが、それよりも充実感で一杯だった。わたしはまだ、今よりもずっと強くなれる。
この道に天井がないことが、とても嬉しかった。
帰り道に見た空はとても高かった。
青くて、眩しくて。思わず手を伸ばしてみたくなった。
雲が掴めそう。
ありえないことだが、本当に届きそうな気がした。
高く手を伸ばし、指先が宙を泳ぐ。
あともう少しだけ、まだ届いてはくれなかった。