(1)
 地面に寝そべって見上げる空は、いつもよりもずっと高く見える。青すぎる空は眩しくて、直視することを躊躇うほどだ。指の隙間から覗き見る空には無数の雲が浮いている。立体感のあるその雲たちは、ふわふわと柔らかそうだった。
 唐突に手を高く伸ばしてみたくなった。肩から腕を高くつきあげる。少しでも遠くへと伸ばされた指先が、宙をもがいた。
 当たり前のことだけど、雲に手が届くことはない。雲も、空も、わたしには遠すぎて、手の届かない存在だ。
 そう。雲を掴むことなんてできるわけがない。
 つい先ほどまで校舎の外周をランニングしていたおかげで温まっていた身体は、馬鹿げたことをしている間に冷え切ってしまっていた。三月の気候は半袖で過ごすには、まだ早すぎたのだ。校門の柵に掛けて置いたジャージに腕を通す。気温とは不釣り合いな温かい春の日差しを浴びていたジャージが体を包み込んだ。決してセンスがあると言えないデザインは、高校の部活動特有の芋臭さがぬぐい切れない。ありきたりなスポーツブランドにしておけばいいものを、変に特注してしまったジャージの背中には、ポエムのような決意が綴られていた。
『努力』
『仲間』
『勝利』
 羅列される単語は、いまのわたしには嫌味にしか映らない。わたしを皮肉するためだけに作られたジャージであるかのように感じてしまう。それが完全なる被害妄想であることは分かっている。このジャージは創部したときにデザインされたもので、一度も変更されていない。だけど、わたしは自分が被害者であると思い込んでいたかった。
 そんな自分に軽い自己嫌悪を抱き、深いため息をおとす。
 吐き出された白い息は宙に消えていった。
「カホ先輩、ランニングされてたんですかぁ? こんなに寒いのに、大変ですねぇ」
 背後から声を掛けてきたのは、一学年下に在籍する有田小春だ。わたしと同じ芋臭く、熱い決意が綴られたジャージを身に纏い、シューズとラケットケースを見せつけるように抱えている。
 それを見て、わたしは心の中でまた深いため息を落とした。
 有田小春とわたしは同じ卓球部。かつ同じクラブチームにも所属していて、ずいぶんと昔からの知り合いになる。クラブチームではほとんど同期、部活動では先輩と後輩。卓球生活という点においては、最も身近な人物の一人と言えるだろう。
 でも、わたしは彼女のことが嫌いだった。
 あまり会話を長引かせたくなかったため、さっき袖を通したばかりのジャージのファスナーを下す。わざとらしい音を立てながらファスナーは開いていき、隙間を埋めるように冷たい風が入り込む。中途半端に乾き始めたの汗が風にさらされて、体感温度は急低下した。
「別にそんなに大変じゃないよ。今からもう二周くらい行くつもり。コハルちゃんは?」
「私は今からクラブチームの方で練習なんでぇ、早めに上がらせてもらいまぁす」
「お疲れさま。頑張ってね」
 適当な返事だけを残して「じゃあ」と踵を返そうとすると、有田小春は大きな声でわたしを引き留めた。
「カホ先輩も、外周ランニングばっかりしてないで卓球場にも顔出してくださいよぉ。卓球場でフットワークのトレーニングしてくれてもいいですし。ほら、素振りも筋トレもできますよ。あ、何なら球拾いしてくれたらありがたいなぁ。大会も近いし! 誰も迷惑だ、なんて思いませんからぁ。ね?」
 言葉の節々からちくりと棘が見え隠れする。面と向かって「迷惑だから来るな」なんて言われた試しはない。わたしが不在のときに言い合っているのだろう。証拠はない。咎めるつもりもない。腹が立つのは、有田小春が面と向かって嫌味を言いにきたことだ。彼女の言葉は棘なんてもんじゃない。明確な殺意を持った刃だ。
 あからさまに仕掛けられた罠になんてかかってたまるか。
 ぎゅっと強くこぶしを握り締めて、泣き出したい気持ちをぐっと我慢した。
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて、顔出しに行くね」
 悲しんだり、怒ったり。激情を見せれば彼女の思うつぼ。わかっていたからこそ、愛想よく笑いかけた。精一杯の強がり、「やられてばかりだと思うなよ」と念を込めて。
 視線が交わる。互いに笑顔を浮かべ、逸らしては負けだといがみ合う。先に視線を逸らしたのは有田小春だった。
 彼女は不満げに「それじゃあ、さようなら」と吐き捨てて、部室棟へと駆け出して行く。きっとわたしが悲しんだり、怒ったりすることを期待していたに違いない。先輩に喧嘩を売ろうなんて百年早いのよ。心の中で中指を立ててやった。
 有田小春との仲はもちろん、わたしは卓球部の部員にあまり好かれてはいないと思う。顔を出さなくなってからは、顧問でさえもどう思っているか怪しいところだ。まぁ、それは仕方のないことで、頷けることでもあった。別に仲睦まじく交流などをしなくても、実力が衰えたりはしない。クラブチームでの練習を主軸としていたため、部活動はなおさらにどうでもよかった。卓球は個人競技だ。和気あいあいとした仲間なんて要らない。最低限、練習に必要とされるコミュニケーションは不可欠だろうが、それ以上は別になくていい。それならば、たいして強くない高校の練習は不必要だ。少なくとも、わたしははそう思っていた。
 それなのに。いや、それだから。わたしには仲間を馬鹿にしたツケが回ってきてしまった。もしかすると、最初からそうなる運命だったのかもしれない。
 とにかくわたしは、卓球の神様にさえ嫌われてしまったようだ。
 わたしにとって卓球は生きる意味だ。
 そう言っても過言ではないほどのめり込み、時間を費やしてきた。
 しかしいまではもう、嘘でも「好きだ」なんて言えなかった。

脱いだジャージを校門の柵に再びかけ直し、軽く腱を伸ばす。これ以上、怪我を重ねるわけにはいかない。入念にストレッチを重ね、再びアスファルトを強く蹴り出す。硬い感触が足全体に伝わった。靴底から冷たさまでもが伝わってくる気がする。
外周ランニングは好きじゃない。息が上がって苦しいし、アスファルトを踏みしめるこの硬い感触が嫌いだ。それに、肌を焦がすような直射日光。日焼けをするのが嫌という理由もあるが、室内の照明に慣れた皮膚が悲鳴を上げていた。体育館の床を踏みしめるあの感触。雑巾でシューズの裏を湿らせて、滑り止め代わりにする日常。ゴム製ラバーの独特な匂い。ピン球を追いかけて左右を縦横無尽に駆け回っていたあの日々が懐かしい。
戻りたい、と思う。
戻れない、と思う。
一周ちょうど一キロメートルの校舎の外周は、何も考えずに走るのには少し長すぎる。
桜が咲く道中に不釣り合いな白い息を吐き出しながら、わたしは懐かしく青い日々に思いを馳せた。