体育館はさながら熱帯だった。じりじりと身を焦がすような熱い闘志が、確かにそこには存在していた。
 わたしはその熱をすでに失ってしまっている。ひとり冷めた心で、ここに立っている。
 諦めた人間がここに立つことは失礼に値するのではないか。
 それは恐怖に近しい感情だった。逃げ出したいわたしの、言い訳に等しいされごと。

「ただいまより、第○年度高校総合体育大会地区予選の開会式を開始します。選手並びに監督のみなさまは、アリーナに集合してください。繰り返します……」

 人の流れが一斉に同じ方向を向いた。まだ荷物を抱えたままのわたしは、流れをせき止めるように立ち止まっていた。
 とりあえず、荷物をどこかに置かないと。
 そう分かっているのに、硬直した足は思うように動いてくれない。小刻みに膝が笑っていた。
 きょろきょろと視線を動かすと、遠くの方で平田さんと目が合った。彼女は流れに逆らうように、小さな体で人混みをかき分けてこちらに近寄る。
「先輩! 夕凪先輩、こっちです。ここ上がって、一番角の席一体はだいたいうちの高校です。私のカバンに大きなクマのぬいぐるみついてるんでわかると思います」
「あ、ありがとう。置いたらすぐに行くね」
「大丈夫です。ゆっくり準備してきてください。先輩、一回戦の最初の組なんです。私、先生にちゃんと連絡しておくので体動かしておいてください」
 手渡されたのは、今日のトーナメント表だった。「夕凪果歩」に蛍光マーカーが引かれている。名が記される位置はちょうど第四シードの上だった。
 今大会は珍しく、人数の問題で第一シード以外は不戦勝にならないようだ。
「本当はもっと早く渡しておけばよかったんですけど、ごめんなさい。じゃあ、私は先行ってますね。一回戦、お互いに頑張りましょう」
 そう言って流れに沿って小走りにかけて行く平田さんは、わたしと同じでやっぱり芋臭いジャージだった。

 淡々と進行するありふれた開会式をバックミュージックにして体を温める。軽く関節を伸ばして、ランニングをした。体育館の通路にはちらほらと観客が点在している。みな、選手の勝利を信じて応援にきたのだろうか。
 お父さんとお母さんは、兄の試合の応援に。
 部活動に仲間と呼べるほど、切磋琢磨してきた人もいない。
 恩師、斎藤穂高は有井小春のベンチだろう。
 有井小春の眼中に、もうわたしの姿はない。
 自分にとって仲間と呼べる存在は、いつの間にかいなくなってしまっていた。いや、最初からいなかったのかもしれない。
 熱い試合会場の中で、たった一人、勝利以外を目的として立つ。それは孤独なことだった。一人ぼっちをより痛感させられる、そんな苦しい世界だった。
 身体はどんどんと温まっていくのに、それに反するように心が凍えている。選手宣誓を聞きながら、その温度差に震えてしまいそうだった。
「果歩」
 聞きなれた暖かな声は、ここには存在しないはずだった。とうとう幻聴が聞こえ始めたのか、と自分自身に苦笑をこぼす。
すると、もう一度「果歩」と呼びかけられた。
「七星?」
 七星はゆっくりと頷く。濃くはっきりとした顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「どうして、ここに?」
「月見くんに誘われちゃってね」
「そっか」
 こちらに歩み寄る彼女に、「ごめん」と言おうとした。
 忙しい時に、休日に、こんなところにまで、どうせ勝てない試合に来てくれて、ごめん。しかし、先にその言葉を発したのは彼女の方だった。
「果歩、ごめん。ナナがここに来たことも、月見くんに告げ口したことも、怒ってる?」
「ううん、怒ってないよ。びっくりしちゃっただけ」
 七星はそれを聞いて「よかった」と零した。少し離れたところから聞こえる開会式が、もう終わりに近づいている。注意事項の説明を始めた。
 わたしはジャージを脱ぐ。芋臭く、皮肉めいたジャージを適当に折りたたむ。
「ゼッケンつけなくていいの?」
 七星は空のままの背中を指差して、そう尋ねた。
「あ、忘れてた。つけるよ、カバンの中にある」
 一番端の座席に放り投げたカバンの中から、ファイルを取り出す。七星はそれを奪い取って、わたしを座席に座らせた。
「ゼッケンつけるから、そのまま座ってて」
「あ、ありがとう」
「今年は自分で書いたんでしょ? ゼッケン」
 安全ピンを開きながら、七星はそう呟いた。その声はすこし、寂しそうにも聞こえる。
「うん、七星が去年書いてくれたのをなぞったの」
「言ってくれたら、今年もナナが書いたのに」
 背中にゼッケンのわずかな重みがのしかかった。薄い布切れ一枚は感じるほどの重みはないはずなのに、何が重たくさせているんだろう。
「ナナね、果歩のこと大好きだよ。果歩が思ってるよりもずっと。それはね、果歩が卓球を辞めたって絶対に変わらないけど」
 ドン、と背中に軽い衝撃が広がった。
 振り向くと、七星は穏やかに笑っていた。
「ナナね、果歩が卓球の話してるのがね、すっごく大好きだったの。キラキラしてて、綺麗だった。だからね、今日は一番強い果歩を見せて」
 親友が応援してくれることは、心強い。仲間がいないわたしは、それを心の底から欲していた。でも、いまのわたしに七星の期待に応えられる力量は備わっていない。それが、申し訳なかった。
「無理だよ。練習してないもん」
「別にね、勝って欲しいわけじゃないの。ただ、今の果歩にできる全力が見たい」
 いつのまにか握りしめていた手には、くっきりとした爪痕が残っていた。七星はそれを柔らかく握りしめ直して、彼女の両手で包み込む。暖かくて、柔らかな手が、不安と罪悪の感情を和らげてくれるような気がした。
「果歩、行ってらっしゃい。二階で見守ってるよ」


『一回戦、一組目の選手は指定されたテーブルについてください』
 場内アナウンスがそれを告げる。一組目に振り分けられたわたしは、テーブルに向かっていた。
『なお、一組目の審判は相互審判となっております。トーナメントの上側に名前がある選手の学校からお願いします』
 それは忘れていた問題だった。これまではわたし自身にシードが付くことが多かったから、考えたことすらなかった。周囲を見渡すが、同校の生徒は見当たらない。相手校の生徒に頼むしかないのか……
「せーんぱい! もしかして、審判に困ってますぅ? 私がやりますよ、私が、します」
 思いつく限りの人間で、最も頼みたくない人物が手をあげている。思わず眉間にしわが寄ったことが、自分でもわかった。
「嫌だなぁ。そんなに露骨に困った顔しないでくださいよ。優しさじゃないですかぁ」
 彼女は喜ばし気に口角を上げ、こちらに歩み寄った。真正面に立ちはだかり、顔をしかめたままのわたしを眺める。
 あぁ、本当に嫌だ。
「先輩は、私のこと嫌いでしょう。私は、それが嬉しいんです」
 性格悪いな、と嫌悪をひどく感じる。
「あ、今、性格悪いと思ったでしょう? いいんですよう、自分でもそう思いますから」
 分かってるならかかわってこないでよ。どうせ審判だってする気ないんだから、どっか行ってよ。そう念じながら睨み見る。
 有田小春は睨む私を見て、表情を和らげた。
「私は今、嬉しくて仕方ないんです。やっと先輩が有田小春という存在を認識してくれて。どんな形でもいいから、私はカホ先輩の視界に入りたかった」
 彼女は一つ、深呼吸をした。
 まっすぐ、真剣な瞳がこちらを見つめる。その表情には、何か決意が宿っていた。
「この大会は私が優勝します。絶対に、です。カホ先輩が見てない間に、私は強くなりました。カホ先輩が私を見てくれなくても、私はずっとカホ先輩を追いかけ続けました。だから、先輩、先輩の最後を見守る権利はわたしが持っててもいいじゃないですか」
 ずっとわたしの後ろにいた有井小春は、ずっとわたしのことを追いかけて、いつの間にか追い抜いて行った。もう届かないほど前にいるはずの彼女は、いまでもわたしの姿を見ている。
 わたしは、彼女の存在に目を向けてこなかった。自分より弱いと思っていたからこそ、クラブチームでも特に意識してこなかった。
 それはどれだけ残酷なことだったか。
 理解した気になることは簡単だが、もっと深い苦しみが彼女にもあったのかもしれない。いや、実際にあったんだろう。でも、わたしの苦しみも彼女にはわかりやしない。結局、わたしたちはどこまでいっても理解し合えない運命なのだ。
「ね、先輩。私たちは仲間にも好敵手にもなれなかったけど、誰よりもカホ先輩に認めて欲しかった」
 有井小春は寂しげにそう言った。
 いつも強気で、嫌味ばかりの彼女の声は聞き逃してしまうほど小さかった。
 だから、思わず頷いてしまった。
「コハルちゃん、相互審判をお願いします」