(8)
 まだ、太陽も眠りについているような午前四時。
 寝つきが悪く、目が覚めてしまった桜井七星は鏡の前で、ぼんやりと無意味な時間を過ごしていた。

 ナナは顔が良い。大きな瞳は綺麗な二重瞼をしているし、鼻筋は高く通っている。華奢で太りにくい体質。特にこれといったコンプレックスを持ち合わせてはいなかった。
『ナナはお父さんに似たのよ』
 お母さんはナナを褒めるときには必ずそう言う。愛おしいものを撫でるように、ガラス細工に触れるように。その手つきはいつも優しかった。
 ナナは父親の顔を知らない。写真でさえも見たことがなかった。お母さんが妊娠してすぐに、事故で死別したとだけ聞かされている。
 ただ、ナナは本当のことを知っていた。お母さんが隠し通すことができていると思っていても、周囲の人間は正直だ。一定の年齢に達したときには、その事実を嫌と言うほど耳にさせられてきた。
 不倫
 そう、ナナは生まれてくるべき人間ではなかったのだ。どこかでのうのうと生きているはずの父親は、顔が良いだけの愚図だった。手切れ金として母に莫大な養育費を一括で手渡して消えるような、とんでもない愚か者。でも、そのおかげでナナとお母さんは何の不自由もなく悠々自適に暮らしてるのも事実だった。
 鏡に映る自分の顔が恨めしい。
 会ったこともない、大キライな父親の顔を連想させる。

 はじめてナナの父が生きている、ということに気づかされたのは小学五年の秋のことだ。
「ナナちゃんのお父さんはさ、不倫して出て行ったんだよね。なんかそれって汚いよね。あれ、知らなかったの?」
 シングルマザーでありながら、莫大な養育費によって成り立つナナの家のことをあまりよく思っていない従妹によって、それは告げられた。一つ年上の彼女もまた、片親の娘だった。ただ、彼女の家は決して裕福ではなかった。お母さんの姉は毎日パートタイマーとして忙しく勤務し、その娘の彼女も我慢を強いられていたようだ。
 従妹は当たり前のように公立中学に進学し、陸上部に所属した。ただ、とびきり突き抜けたような才能があるわけでなく、凡人が努力で補うその程度だった。しかしそれは、従妹よりも金銭的に恵まれていたナナにも同じことが言えることだ。ナナもまた、公立中学に進学していた。理由は自宅から近かったからの一点に尽きるが。
 部内で飛び切り速いわけではない。でも、決して遅いわけでもない。
 中間地点を彷徨うナナたちは、互いに互いを敵視し合っていた。邪魔だったのだ。ぎりぎり選手として選んでもらえるかのボーダーラインにいたから。

 あれは、従妹にとって最後の大会の直前。リレーメンバーを決定するためのタイム測定日のことだ。
 雨上がりのトラックは、ぬかるみが激しかった。どろ跳ねを気にすることなく、ただゴールラインを目指して駆け抜けようとする。視界の端に従妹の姿が映って、ナナは自身のペースの好調さを実感した。
――いける。勝てる。
 そう思ったとき、ナナの足はぬかるみに取られてしまった。スローモーションのようにゆっくりと長い時間をかけて転倒した。一瞬の出来事であるはずだが、ナナがこけると認識してから、とても長い時間だったように思う。ただ、どうすることもできずに体は白線を超えて大きく傾いて落ちてしまった。
――痛い。
 そう思ったとき、足首に違和感が走った。こけた衝撃で受けたものではない、こけた時に打った場所は膝だったからだ。すぐに誰かに踏まれたのだと気が付く。途端、体に重たいものがのしかかった。研ぎ澄まされた嗅覚が、従妹が使う洗濯用洗剤の匂いを捕まえた。
 絡まり合った体を起こすと、従妹は痛みに顔を歪ましていた。
 抱えられる膝。睨みつけられたその視線。
 ナナは訳も分からず、恐怖に涙を滲ませた。
「ごめん、ごめんなさい」
 その言葉を受けた従妹は、苦し気に吐き捨てた。
「泣くな。あんたは泣いたら、何でも許されると思ってる。顔が良いって得よね。もともとうちに足を掛ける気で転んだんでしょ。最悪、本当に汚い」
 その「汚い」はナナの生い立ちに向けての言葉なのか。それとも、この現状に向けて吐かれた言葉なのか。
 どちらにしても、ナナは「汚い」。その言葉を受け入れてしまった。


 うたた寝をしていたのか、気が付くと朝日が差し込んでいる。スマートフォンで時刻を確認すると、もうすぐ七時を指すところだった。
 きっと果歩は試合に向かっていない。
 それは彼女が選んだ道で、部外者のナナがとやかく言っていいことじゃない。そう思っている。
 ナナが果歩と親友になったきっかけはいったい何だっただろうか。一年の時、同じクラスになったことは友人になったきっかけに過ぎない。たくさんの生徒がいる中で、ナナたちはどうして互いを選んだのだろう。
 きっと何か特別な出来事やきっかけになりそうなことが起きたわけではない。ただ、純粋に気が合ったのだ。部活動も出身中学校も違う。その近すぎない距離感の居心地が良かった。果歩は絶対にナナの家族について聞かない。ナナの些細な感情の機微を読み取り、絶対に踏み込んで来ることはなかった。
 だから、ナナもその距離感を――彼女にとって不可侵の領域を守らなければならない。
 月見くんが居てよかった、強くそう思う。
 彼なら今の果歩を救ってあげられるかもしれない。ナナではだめなのだ。自分ではその背中には届かない。届いてはいけない。
 親友って、本当に難しい。何でも分かってあげられるからこそ、これ以上踏みこんじゃいけないラインも明確に見えてしまう。
 濃く、はっきりと轢かれたその境界線
 ナナはそれを決して超えることができない。もし、踏み込んでしまえばそれが最後。果歩とナナの関係性はどう転んだとしても、二度と元には戻らない。
 いつかの日を思い出す。
 果歩は遠い空に向かって手を伸ばした。何かを掴もうと懸命にもがくようなその姿を見て、純粋に綺麗だと思った。
 あの行為に何か特別な意味があるのかはわからない。ただ、真っすぐ手を伸ばす彼女の姿がたまらなく眩しかった。その眩しさを汚してしまうことに怯えて、ナナ自身が彼女に近寄ることを許せなかった。
 だって、ナナは「汚い」人間だから。

 窓の外に広がる青い空が痛いほどに眩しい。明け方の太陽に照らされて白く発光する雲は、綺麗を通り越して神々しいとまで感じる。
 あの日の彼女と同じように、ゆっくりと手を伸ばす。掴めないと分かっているそれは、思ったよりもずっと遠くにあるように感じた。

「果歩は、本当に卓球が好きだね」
「うん、すっごく好き。本当に大好きなの」

 そんな会話をした高校二年のある日、ナナは果歩のゼッケンに『夕凪』とレタリングを施した。その不格好な『夕凪』の文字が揺れる姿を目にしたことは、たったの一度もない。
 彼女はそのゼッケンをつけて何度試合に出場したのだろうか。
 あのあとすぐに怪我がひどくなってしまった彼女は、今も卓球を好きだと思っているだろうか。
 ナナは好きだった。彼女が卓球を語る姿を、誰よりも愛していた。
 でも、それと同じくらい苦しくて痛かった。
 彼女の輝く姿は、空に浮かぶ雲と同じくらい遠くて掴めないものだ。
 汚いナナには届かない雲と同じ存在。
 彼女が卓球を辞めたなら、ナナと同じところまで落ちて来てくれるだろうか。そのとき、ナナたちはもっと深い所で痛みを共有できるのだろうか。
 でも、願ってしまう。
 果歩には夢を追いかけていて欲しい。
 一生届かない雲でいて欲しい、と。

 気が付くと、ナナは通話アプリの『月見樹(外周の子)』をタップしていた。
 ワンコール、ツーコール、スリーコール…
「もしもし、月見っす」
「おはよう、月見くん。ナナだけど、あのね、一つだけお願いがあるの」
「どうしたんっすか?」
 それを告げるには、勇気が必要だった。果歩を裏切る行為だと分かっているからだ。
 一つ、深呼吸をして薄いスマートフォンを固く握り直す。
「あのね、果歩。たぶん、怪我もう治ってるの。ずっと一緒にいたからわかるんだ。痛みで苦しんでた時のこともよく知ってるから。でもね、今の果歩、きっと痛みなんてないよ。治ってる」
「あ……」
「果歩ね、逃げてるだけなの。卓球から逃げてるだけなの…… お願い。月見くん、果歩のこと、救ってあげて。ねぇ、お願い」
 少しずつ熱を持ち始めた声が、涙で震える。途切れかける言葉を繋ぎ合わせて、必死に懇願する。
「総体って、今日っすよね?」
「うん、今日。市立体育館で、九時に開会式だと思う」
「俺、迎えに行くっす。夕凪先輩の住所教えてもらえますか」
「ちょっと待って、チャットで送るから」
 慌てて果歩の住所が記された過去の年賀状を手繰り寄せる。震える指が打ち込む作業を遅らせて、また涙が込み上げてきた。泣いたら許される、そう思っているわけではないのに、涙はいつも簡単に流れ落ちてしまう。
 送信した住所に既読が付いて、これで果歩が救われる、そう思うとまた涙が湧き出てきた。
「桜井先輩! 俺の分の席も確保しておいてくださいっす。夕凪先輩は俺が絶対連れて行くんで」
 勢いよくそう叫ばれたせいで肩が大きく震える。驚きで、こみ上げていた涙が収まっていった。少し間を作り、落ち着きを取り戻そうとする。
「席はいっぱいあるから、大丈夫だよ。月見くんが行ったらで、間に合うよ」
「え、桜井先輩はいかないんっすか?」
「うん、ナナはいかない」
「なんか用事っすか?」
「ううん、違うけど」
 月見くんは、思いのほかしつこく食い下がった。
「じゃあ、なんで来ないんっすか。夕凪先輩も、桜井先輩が来てくれた方が心強いっすよ」
「そんなことないよ、ナナにとって果歩は憧れだけど。果歩にとってナナは、そうじゃないから」
 ナナは果歩のことを信じていないわけじゃない。でも、ナナは自分が果歩にとって有益な人間でないと思っている。汚い、そう称される人間は、光り輝く雲には手を伸ばせない。
「桜井先輩は、今年の夕凪先輩のゼッケン知ってますか?」
「知らないよ。誰かに書いてもらったんじゃない?」
 そう、今年の彼女のゼッケンに『夕凪』の文字を刻んだのはナナじゃない。その事実は、ナナにとって悲しくて惨めなものだった。彼女には自分以外にも頼る人間がいる。それはナナには手に入れられないものだ。
「今年も、桜井先輩が書いたゼッケンです。夕凪先輩、桜井先輩が書いた文字をなぞるって言ってました。申し訳ないから頼めないって」
「なんで、わざわざ」
「あれは、夕凪先輩のお守りです。桜井先輩のご利益を信じてるらしいです」
「ばっかじゃないの。ナナにそんな力あるわけないじゃん」
「それでも、夕凪先輩は桜井先輩の存在を信じてます」
 ナナは汚い人間だ。ご利益なんかあるわけない。でも、それでも果歩は信じてくれている。
「桜井先輩は夕凪先輩にとって幸運の女神みたいなもんなんすよ。だから、行きましょうよ。つい最近知り合った俺一人じゃ効果薄いっす」
 どうして、こんなナナを信じてくれるのだろう。
 嬉しさなのか、別の感情なのか。この涙の理由はわからなかった。
「……先、行ってる。特等席を期待してて。その代わり、果歩のこと絶対に連れてきてね。約束」
「任せてください、絶対連れて行くっす。約束」
 彼はそう言い残して、通話を終了させた。途切れた通話画面は着信履歴に切り替わる。こんなにも力ずよく、信頼できる名前は他にないと思う。
 あぁ、月見くんは本当にすごい。
 君は、ナナと果歩が無意識に定めた不可侵の境界線を容易く飛び越えて見せた。
 それも、ナナの手を引いて。