「いい香りだねえ」
 郁子の様子に気がついたのだろうか。おばあちゃんが教えてくれた。
「くちなしの花の香りだよ」
「くちなし……」
 聞いたことがある。おばあちゃんはじいっと正面を見据えている。郁子も前方に目を向ける。昨日は気づかなかったがそこに幅が一メートルほどの低い生垣があった。白い花がいくつも咲いている。

「空気が湿ってるから昨日より香りがするねえ。雨が降ればもっと匂い立つよ」
 おばあちゃんの声を聞きながら郁子は花を間近で見るために立ち上がる。
「いい匂い……」
 大きくて細長い花びらが六枚。肉厚でぷっくりして、くるんとなっているのが可愛い。肌触りが良さそうなつややかな白さに引かれて手を伸ばす。指先でそっと触れてみると、しっとりと気持ちが良かった。
「気に入ったかい」
「はい……」
「ワタシも好きな花だよ。この歌が好きでねえ。……演歌。若い人は知らないだろうねえ」

 その通りだったので郁子はこっくり頷いておばあちゃんの隣に戻った。
「向こうの花壇は見てきたー?」
「はい」
「あれは目がちかちかするねえ」
 おばあちゃんの表現に郁子は目をぱちぱちしてしまう。でもそうだ、確かに。色とりどりで綺麗だったけれど、あんなに見つめていたにもかかわらず、ひとつひとつの花の姿かたちをぼんやりとしか思い出せない。
 それに比べて目の前のくちなしの生垣はなんてシンプルなんだろう。花びらと同じくつやつやした若葉に白い大きな花。なのに見飽きない。おばあちゃんに名前を教えてもらったから印象もひとしおだ。

 しばらくの間、くちなしの生垣を眺めていた。
「あなたも入院してるの?」
「はい……」
 昨日も訊かれたことだと思いながら郁子は返事をする。すると昨日の男性が庭の入り口から入ってきた。
「母さん、お友だちができたね」
「うん、そう。さっき知り合ったんだよねえ」

 郁子の方に少し顔を向けながらおばあちゃんは朗らかに笑う。やっぱり、昨日も会ったことは覚えてないのだ。おばあちゃんの息子らしい男性が申し訳なさそうな顔になる。郁子はなんとも思わなかったから、おばあちゃんに向かって少し笑って頷いた。