「母さん」
 突然男の人の声がして郁子はびくっとしてしまう。
「雨が降ってきた。急ぐからおんぶするよ?」
「はいよー」
 男性が片膝をついて足の間にしゃがみ込むと、老婦人は慣れたようにその肩に腕を回してしがみついた。老婦人を背負って立ち上がった男性が郁子を見る。郁子の父親より顔に皺が多く髪にも白いものが目立つ。
「杖、拾ってくれたんだね?」
「はい……」
 杖を受け取った男性は、郁子のことも促した。
「君も早く」
「はい」

 落ちてくる雨粒の数がどんどん増えていく。走り出した男性の後についてタイルの歩道に戻ると、車椅子を押して急ぐスタッフと入れ違いにこっちに向かって走って来る聡が見えた。
「捜したんだぞ」
「ごめん……」
 老婦人と男性は既に建物の方に行ってしまった。郁子も聡にかばわれながら歩道を急ぐ。庇の下に入ったところでいったん足を止め息をついた。

「外に出るなら出るって言ってから行けよ」
「ごめんなさい……」
 怒られて首をすくめた郁子だったが、聡が怒ってはいないことはわかっていた。心配の方が色濃い瞳で聡は郁子を窺っている。居たたまれない気持ちで黙りこ込みそうになってしまったけれど、勇気を出して郁子は口を開いた。
「聞いたんだよね……」

 聡の眉間が寄る。頑張って幼馴染の顔を見上げながら郁子は続ける。
「わたしが何をしたか」
「うん」
 頷いて聡は口を引き結ぶ。
「ごめんなさい」
「……。俺に謝ることじゃないだろ」
「軽蔑したよね……」
「そんなことしない」
 きっぱり言って聡は郁子の右手を取る。
「郁子は思い留まったんだろ?」
「……うん」
「二度としないよな?」
「うん」
 ならいい、と聡は郁子の手を引いて歩き始めた。



 その日の夜はいつも以上にたくさんのことを思い出してしまって眠れなかった。修司のこと、聡のこと、自分の家のこと……。様々なことが頭の中を駆け巡るたびに、今日聞いた達也や修司の姉の言葉を思い出す。
 ――幸せになりたいから人を好きになるんだろ。
 ――自分とは違う人の方が良いんだよ。