「もちろん母はすごく喜んでたよ。こいつは母の前では借りてきた猫みたいで、おもしろかった。それから、私が留守の間にも何度も来てたみたいで。そのうちこいつまで母と一緒に暮らしたいって言いだしたの。母はいいわよって言ったけど、私は冗談じゃないって反対した。母との生活は楽なものじゃなかったから」
 そこで言葉を切って汐里は瞳を眇めた。

「……毎晩毎晩、泣きながら死にたいって言うの。自分がこんなだから父さんに捨てられたんだって嘆くの。私に向かってごめんなさいって謝るの。……母は父への恨み言は言わないけれど、代わりに自分を卑下してばかりいた。毎日毎日。自分で選んだことだけど、私は母を支えるだけで精一杯、弟のことまで面倒見る余裕はなかったの。
 自分のことは自分でできるし、自分だって母を助けたいって修司は主張したけど、私にはとてもそうは思えなかった。仲間に煽られて悪さするようなヤツのこと信用できない。こいつは単純だから母の暗さに中てられてしまうって思ったの」

 どうしても気になって、聡はそこで口を挟んでしまった。
「タチバナは大丈夫だったのか?」
「……」
 汐里はゆっくり瞬きしてから優しく微笑んだ。
「ええ、私は大丈夫。ありがとう」
 そしてお茶を飲む。聡も自分のペットボトルの水を飲んだ。

「それで、修司は私たちと暮らすことは諦めたものの、すっかり父のところにいるのが嫌になってしまったのか、友だちの家を泊まり歩いたりしてたみたい。そんなこと長く続けられるわけもないし、そのうちおとなしく家に戻ってはくれたのだけど。
 今思えば、こいつはとっくに引っ張られちゃってたんだよね。ううん、元からそういうヤツだったんだよ」
 ――こいつは元からそうだったから。
 初めに汐里はそう言っていた。

「生きている感じが薄いっていうか、生命力が弱いわけじゃあないけど明るい方に向かわない。思い出してみれば子どもの頃からそうだったんだよ。のほほんとして見えたのは、こいつが大抵のことはどうだっていいって受け身の姿勢だったからだろうなって今では思う」
 大抵のことはどうだっていい――それは郁子も醸し出していた空気だ。

「だけど大概のことはやれちゃうタイプの人間だからさ、頼られれば張りきるし、褒められればまた調子にのる。その繰り返しで素の自分なんかわかんなくなっちゃってたんじゃないかな。で、何かの拍子に我に返って思っちゃうのよ、オレ何してんだ? って。その結果がカノジョとっかえひっかえだったんだろうな。オンナノコに頼るところがマザコンだし、父親に似てタラシなんだよね。しょーもない」