郁子がそう思うようになったのと同時期に父親はあまり家に帰ってこなくなり、母親は毎日怖い顔ばかりしているようになった。

 食事の最中ごはん粒をこぼしてしまう、洗面所の床を濡らしてしまう、そんな些細なことでいちいち怒られるようになって、郁子は母親と家にいるのを辛く感じるようになってしまった。自分だって郁子の学校の行事を忘れたりするくせに。
 学校から帰ってきて母親がいないとむしろほっとした。夜になってそろそろ母親が帰ってくると思うと、気が重くなった。
 だから「お母さん、これから帰りが遅くなるから夕飯は好きなものを買って食べてなさい」とお金を渡されたときには寂しいとは思わなかった。好きなお弁当を毎日買って食べるのはそれは楽しかった。

 程なくコンビニのお弁当に飽き気持ちが落ち込んでしまったが、そんなとき聡が食事に来てくれるようになって、また楽しくなった。
 聡の家に行くのは緊張するし気が引けた。母親に「食べ物をたかるみたいな恥ずかしいことは止めなさい」と怒られもしたし。
 それより子どもたちだけで郁子の家でご飯を食べるのは気が楽で、特別なことのような気がしてとてもおもしろかった。ほんの数回で終わってしまったイベントだったけれど。

 やがて更に母親から「今夜は帰らないから戸締りをしっかりして寝ていなさい」と言い渡されたとき、心がぱっと軽くなった。母親が帰ってこないということに安堵した。

 ……以前はこんなじゃなかった。ひとりで家にいるのは寂しかった。お母さんかお父さんが帰ってくれば、嬉しくて玄関まで「おかえりなさい」を言いに行った。話したいことがたくさんあって両親が靴を脱ぐ前からしゃべりだそうとし「ちょっと落ちついてから」と窘められた。そう言いながら頭を撫でられるのも嬉しかった。それなのに。

 家に誰もいないことに安心するようになっていた。誰も帰ってこなければいいのに、と思っていた。それはきっと自分が冷たい人間だからなのだ。
 情けなさに目に涙が滲んで郁子は上着のポケットを探る。ハンカチと一緒にスマートフォンを取り出す。目頭を拭いながら画面を見つめて少し迷う。

 ――なんかあったらオレに電話しろ。
 思い出した言葉に引かれるように画面を操作する。しかし受話器のアイコンを押す前に郁子は思い留まった。
 修司に電話してどうする? 話したからってどうなる? だいたい自分の抱えている思いを上手く伝えられるとも郁子には思えない。ただ泣きじゃくって困らせるだけだ。