もう嫌だ。こんな家にはいたくない。ぷつんと急に何かが切れたようだった。
 郁子はひたすら走った。コンビニの前を通りすぎ、いくつか角を折れ曲がってからようやく足を止めた。
「ただいまー」
 そんな声が聞こえたからだ。前を走りすぎたばかりの家の玄関を開けて、仕事帰りらしい男性が入っていったところだった。

「おかえりなさい」
「おかえりなさーい」
 扉が閉まる前、子どものものらしい高い声が聞こえた。「ただいま」と言って「おかえりなさい」と言われる。「ただいま」と言われて「おかえりなさい」と言う。そんな普通のことを郁子は久しくしていない。最後に両親とそんなやりとりをしたのがいつなのか思い出すこともできない。

 自分は薄情なのだ、絶望的な気分で郁子は思う。とぼとぼと更に自宅から離れるように歩き出しながら、郁子は両親のクルマをガレージに見つけたときの自分の心の動きを思い出してみた。
 両親が帰ってきているのがわかってぎくりとした。ちっとも嬉しくなかった。なんてことだろう。以前はこんなじゃなかった。

 最初は父親が留守がちになった。お母さんがいれば寂しくはなかったけれど、お父さんが帰ってくる日がわかると、カレンダーに印を付けてその日を心待ちにしていた。
 そのうち、父親がお母さんに言わずに帰ってこない日が増えると、ふたりは喧嘩をするようになった。せっかくお父さんが帰ってきた日にどうして喧嘩するのだろう。お父さんが帰ってきたら見てもらたいテストや絵がいっぱいあったのに。

 お母さんと喧嘩をするとお父さんはまた外に出ていってしまう。郁子は話をすることもできない。お母さんはこうなるとわかっているのにどうして喧嘩してしまうのだろう。
「お母さんがあんな言い方するからだよ」
 お父さんと遊べなかったことが悲しくて、郁子は母親に言ってしまったことがある。そのときの母親の形相は恐ろしかった。
「あんたはお父さんの味方なんだね。だったらお父さんと行けば!」
 父親はとっくに出ていってしまったのに、わけのわからないことを言われて混乱した。お父さんを庇うとこういう目にあうのだということはわかった。

 それからは何も口出しせずにひたすら修羅場が終わるのを待つようになった。こんなふうに喧嘩ばかりしてたら一緒にいたって仕方ないじゃないか。まるでお父さんはお母さんと喧嘩をしに家に帰ってくるみたい。