願書を書きこむ手を止めてボールペンを放り出し、郁子は机に頬杖をついた。
「さっさと終わらせろよ。提出明日だろ」
しかめっつらをして急かす聡に、むーっとくちびるを尖らせしぶしぶ作業を再開する。
聡は黙って郁子を見つめ願書を書き終えたのを見届けると、次の用紙を取り出してやる。
「ほら、次」
「なんでこんな面倒な思いをしなきゃならないんだろう」
「仕方ないだろ」
「何もしたくない」
「おまえなあ、たったこれだけのこと面倒がってたら世の中やってけないぞ」
「私もそう思う」
しごく真面目な表情で頷いて、郁子は軽く息をついた。
「大学行って卒業して社会に出て、どんどん面倒が増えてくんだよね。何をするにも『手続き』しなきゃならない。やだなあ。すごく面倒。何もしないで暮らしたい」
本気で鬱々とした様子の彼女を前に、聡は芸もなく同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「仕方ないだろ。生活していくためなんだから」
「どこか山奥にこもっちゃいたいな。一人でさ、なんにも強制されないで。それで毎日絵なんか書いて暮らすの」
「……わがまま」
思わず言葉がもれてしまった。郁子はちょっと目を見開き、それから瞼を伏せて小さく笑った。
「そうだよね」
気を取り直すようにペンを持ち直し、書類の記入を始める。ほんの微かに「がまんがまん」とつぶやくのが聡の耳に届いた。
あのとき郁子が口にしたようなことを誰もが感じている。制限された自由の枠組みを。
それは「法」という制約であったり「会社」という責務であったり「家族」という牢獄であったり。
しかしそれを束縛と考えてはいけない。それが生きるために必要なことなのだから。
郁子は、制限された枠組みの中で我が身のことしか考えず身勝手に振る舞う人間に我慢がならなかった。他人を思いやらない横暴さが許せなかった。
けれど彼女自身も、そんなふうに傷つけられた自分の身ばかりを案じていたのだと、見捨てられた人間が何を思うのかまったく考慮しなかったと、そう責めることはできるのだ。
だが聡には「わがまま」と苦笑いすることはできても、彼女を責めることはできなかった。