電話しようとスマートフォンを取り出したが、話す気にはなれないからメッセージを送る。
 しばらくして届いた返信の通りにそれを食卓に置いて翌朝学校に行くと、夕方戻ったときには書類封筒はなくなっていた。代わりにお金が入った銀行の封筒が置いてあった。

 それを見て郁子はしばらくぼんやりしてしまう。秋の日は短く、リビングは薄暗い。
 時間を確認して郁子は買い物に出かけることにする。封筒の中から一万円を抜いて自分の財布に入れ、制服のまま財布だけを持って家を出た。

 近くのスーパーに行って野菜コーナーを見ていたら後ろから名前を呼ばれた。
「お買い物?」
 聡の母親だ。小さな声で「こんばんは」と挨拶する郁子に、にこにこ優しく笑ってくれる。
 この人はいつも優しい。さすが聡のお母さんだな、と郁子は思う。

 小学校の四年生とかそれくらいのことだったと思うが、運動会の日。昼食の時間に子どもたちは皆お弁当を持って来てくれた家族のところへ行く。
 なのに郁子の母親はいなかった。きちんと「運動会のお知らせ」のプリントを渡してあったのに。

 まわりでは賑やかに、家族ごとにお弁当を食べ始めている。ぽつんとひとりでいるのは郁子だけ。それが恥ずかしくて耳が熱くなった。母親が来ていないことを誰にも知られたくなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて。

 後から思い出してみてわかった。あれは自分が惨めだと思ったから恥ずかしかったのだ。人からかわいそうだと思われるのが、情けなくて恥ずかしかったのだ。

「郁子ちゃん」
 そうはいっても途方にくれていた郁子を呼んでくれたのは、聡のお母さんだった。
「お母さん遅れてるのかな。待ってて時間がすぎちゃってもいけないから、郁子ちゃん、一緒に食べてようか」

 お父さんお母さんがそろって来ている家がほとんどだけど、聡のところはお母さんだけだった。郁子の家と同じようにお父さんは仕事で忙しそうなことはなんとなく察していた。

「おばさんと聡だけじゃ残っちゃうから。郁子ちゃん、一緒に食べよ」