チョコ……。少し考えて聡は納得する。そうか、もうすぐバレンタインだ。
「郁子ちゃんも教えてよ。ねえ、誰にあげたい?」
 ぐっと咳き込みそうになって聡は口を押える。これはまずいところに居合わせてしまった。そうっと体を屈めて聡はなるべく息を潜める。

「わたしはそういうことはしない」
「え?」
「なんで。好きな子いないの?」
「あ、じゃあ、あいつは? あいつにあげたいって子ひとりもいないから」
「だから」
 郁子の声が冷ややかになったのを感じて聡ははらはらする。こうなったときの郁子は容赦がない。止めてやりたいけど、逆効果にならないように割って入る方法がこのときの聡には思いつかなくて。

「どうして、好きでもない子にチョコをあげておもしろがるの?」
 場の空気が凍りつくのを聡も感じた。
「え……だって、バレンタインじゃん。おもしろいじゃん」
「それなら、そう思う人だけで男子にチョコでもばらまけばいいでしょう。中には本気で好きな子に渡したいと思ってる子だっているでしょう。そんな子をこんなことに引きずり込んで良いと思ってるの?」
 普段はおとなしい郁子とは思えない饒舌さだ。

「真剣な子のことなら応援するよ」
「うそ。おもしろがってるだけじゃない」
「もういいよ。行こ……」
「もう郁子ちゃんのことは誘わないから」
 捨て台詞を残しランドセルを背負った女子が三人、渡り廊下の陰から出てきて校舎の向こうへと小走りに去っていった。

「…………」
 衝立越しにも大きなため息が聞こえて聡はますます体を縮こめる。
 重い足取りで郁子が出てきて、校舎の向こうへ向かう。ランドセルを背負った背中からはどんな表情かはわからない。怒っているのか、泣いているのか。

 数日後の掃除の時間。廊下の雑巾がけの途中で床を拭く手を止め、じっと床を見つめている郁子を見た。丸めた肩と背中があのときの後ろ姿と重なって、聡は教室の中からほうきを抱えたまま様子を見ていた。

 ちょうど廊下をやって来た担任の先生が郁子の前にしゃがみ込んだ。
「最近元気がないみたいだけど」
 郁子は驚いたように頭を上げ、先生を見つめ返しているようだった。
「……元気なくないです」
 こもった声音でそれだけ聞こえた。
「そうか」
 先生は立ち上がって郁子の頭に手を置いた。そして教室へと入っていく。
 郁子は雑巾を握った手を動かし始めたが、またその手を止めて廊下の床を見つめていた。