言われてみれば、彼女の姿を同じ講義でよく見かけた。周りの友人たちから「タチバナ」と呼ばれていた。

 倫理学の授業でVTRを見ていたとき、斜め前方の席に座っている彼女に視線が行った。
 するとどういうわけか、彼女が振り返って目が合った。彼女はにっと笑ってすぐにスクリーンの方に顔を戻した。

 そんなふうに何度か目が合ったが話しかけられることはなかった。
 友人ができないのは変わらず。聡は変わらず学校帰りに郁子を訪れる。

 眠る郁子の白い顔を見ながらこれまでの日々を行ったり来たりする。ちょっとしたきっかけから思い出はするするほどけていく。
 短い人生ながら自分なりに色々考えて生きてきたのだ。

 そんな感慨にひとり苦笑いしながら聡は思う。郁子だって、と。郁子だって、きっと聡には思いもよらないことを考えていたのかもしれない。
 今は尋ねることもできないけれど。




 飲み物を買いに、病室棟と外来棟の間にあるコンビニへ行く。ペットボトルのお茶を持ってレジ待ちの列に並んでいると、会計をすませてこっちに来る女性が知っている顔なことに気づく。
「タチバナ」
 思わず声に出してしまっていた。「あれ?」という顔をしてから、相手は少しだけ微笑む。
「奇遇だね」
「ああ」
「時間あるなら少し話さない?」
 窓際のイートインスペースのカウンターの方を指差して、彼女は少し首を傾げる。
 聡が頷くと、彼女は「待ってる」と先にそっちへ向かった。

 彼女がドリップコーヒーのカップを持っていたから、聡も今飲むのにホットコーヒーを買っていく。
「お見舞い?」
 聡が隣に座るのを待って彼女は訊いてくる。
「まあね」
 答えてから「タチバナは?」と小さな声で訊き返す。
「……」
 彼女が黙って見つめ返してくるので聡は不安になる。
「タチバナでいいんだよな?」
「うん、そう。立花汐里。よろしく」

 にっと汐里は笑う。聡の反応を待たずに体の向きを変え、蓋をはずしたままのカップを持ち上げコーヒーを飲み始める。
 それを目の端に入れながら蓋の飲み口の部分を上げて、聡は熱いコーヒーをすする。館内は冷房が利いているから暖かい飲み物が美味しく感じる。

「猫舌なのよね」
 唐突に汐里が言う。
「だからリッドって苦手で」
「……何も言ってないけど」
「笑う人がいるから」
「俺は笑ってない」
 聡は正面に見える坪庭に視線をやったままつぶやく。