「え……。おいっ」
 考えてみれば実は気の弱いであろう人物のこと、声を上げるだけで犯行を断念していたに違いないだろうに、郁子はとっさに体の方が動いてしまっていた。

 飛びつかれてパニックになったのは男子の方で、刃物を持っているにも関わらず腕を振り回そうとする。無我夢中の郁子の視界の真ん中でナイフの切っ先が光る。思わず、目をつぶってしまったのと同時に。

「……ッにしてんだよ」
 瞼を上げると、肩から白いシーツをひっかけた修司がナイフを握った男子の手首を掴んでいた。もう片方の手で無理矢理ナイフを奪う。
 それを見て、ようやく体から力が抜け郁子は男子の腕から離れた。そんな郁子を修司が片腕で引き寄せる。

「なんのつもりだ? あ?」
 修司が凄むと、それだけですくみ上って男子生徒は逃げ出した。廊下の仲間も続いたのか慌ただしい足音が遠ざかっていく。
「ったく。こんなもん持ち込みやがって」
 折り畳み式のナイフの刃を器用に片手でしまって、修司は太く息をつく。

 彼の腕が自分の肩を抱きかかえたままなのがわかったが、郁子は身動きできなかった。さっきとまるで逆だ。今度は体が動かない。
 そのまま両腕を回して抱きしめられても、やっぱりなすがままだった。

「危ないことするな」
 低い囁きに目頭が熱くなる。
「だって……」
 許せなかった。修司が、あんなに、一生懸命準備していたのに。それを傷つけるだなんて。

 片方の頬が修司のTシャツの胸に当たっているのを感じながら郁子は気がつく。視線の先、ボードとパネルの隙間が空いている。あの空間で修司は休憩していたのだろうか。

「郁子は小さいな」
 急に見当違いなことを言われて郁子は目を瞬かせる。
「……普通だよ」
「小さいよ」
 ぎゅっと腕に力が入って胸が苦しくなる。

 そうかと思うと廊下がまた騒がしくなった。
「なんかあったか?」
 入り口の方から声がかかる。修司は腕を解いて郁子の肩を押した。
「行きな」
 頷く間もなく郁子はふらふらと足を動かして出口の方から廊下に出る。入口の方でがやがやしているクラスメートたちが郁子に気がついた様子はなかった。

 来たときとは違う階段を使って一階に下り、郁子はへなへなとそこに座り込んでしまったのだった。