2人の言葉をよそに、手摺(てすり)へ向かって走り出す楼夷亘羅(るいこうら)。塔の周りへ取り付けてある膝下ぐらいの柵状の前で、今度は突然立ち止まる。すると、片足をかけ地上を覗き込み呟いた。

「『――ふぅ、下から吹き上げる風が気持ちいいな!』」
 
 その吹き抜ける薫風は、微かな温もりと僅かな香りを乗せて舞い上がる。

「『えっ、えっと……楼夷(るい)。何してるのかしら? 私は旅立つ前に死ぬのだけは嫌よ!』」
「『で、ですよね。僕も楼夷亘羅が下層を覗き混んでいる理由が分からなくて? でも、もし考えている事が正しければ、そのぉ……』」

 青ざめた表情で見上げる2人は、動揺を隠せず戸惑いを見せる。そんな奇妙な行動を示す楼夷亘羅に何かを察したのか? 身体を後方へのけ反る素振りを見せる。

「『大丈夫だから、任せといて!』」

「『なっ、何を言っているの楼夷(るい)?』」
「『大丈夫……って?』」

 2人は声を震わせ楼夷亘羅へ問い掛ける。その様子はまるで化物でも見たような顔つきで、血の気の引いた表情を浮かべる。

「『いいから、いいから。じゃぁ、2人共いくよ。――あら、よっと!』」

 2人をしっかり抱きしめた楼夷亘羅は、足をかけた柵状の手摺を勢いよく踏み越える。



「『――ちょっ、ちょっと待っ――!? ――――きゃぁぁぁぁぁっ!!』」
「『――うぅっ、うわぁぁぁっ!!』」

 加速しながら地面へと一直線に下降する3人。その打ち付ける圧迫感は凄まじく、目を開けていられないほどの風圧。そうした状況の中、絶叫を放つ2人の目には遠く感じていた大地が徐々に近づいてくる。

「『こんなことなら、もっと美味しいもの沢山食べとけばよかったわ!』」
「『南無阿弥陀仏!! ――あぁ、来世は良い人生でありますように!』」

 身体を丸め、震えながら思い馳せ囁く伊舎那(いざな)。一方、虚ろな表情で目を閉じ、掌を合わせ念仏を唱える吒枳(たき)

 徐々におとずれる恐怖。やがて、地面が目の前に迫りくる!! すると、大きく息を吸い込み、吐く息と共に声を放つ楼夷亘羅。

「『――天舞(てんぶ)!!』」



 呪文に似た、真言と呼ぶ言葉を唱える楼夷亘羅。何かの能力なのか? 不思議なことに、加速していた速度が少しばかり緩やかになる。――ところが、それでも風圧は変わらない!  

「『私の人生って……』」
「『恋人が欲しかった……』」

 遂に伊舎那と吒枳は覚悟を決め、残念そうに目を閉じる……。そうした流れゆく瞬刻のとき、再び力強く2人を抱きしめる楼夷亘羅。落ち着いた様子で周辺の風を浴び、呼び掛けるように言葉を発する。

「『風よ! 俺の声に応え、力を貸してくれ!! ――――はぁっぁぁぁあああっ!! ――天翔天舞(てんしょうてんぶ)!!』」

 地面に激突する瞬間、足先へ意識を集中させる楼夷亘羅。再び同じ言葉を唱え波動を放つ。すると、バネが跳ねるかの如く浮き上がり、緩やかに大地へ降り立つ3人。

「『――よいしょっと! 着いたぜ2人共。――なっ! 大丈夫だったろ』」

 地面へ着地するのを確認した楼夷亘羅。抱きかかえていた2人をそっと傍へ離し、何もなかったかのように言葉をかける。

「『ここは……。あの世じゃないですよね?』」
「『そっ、そのようね。――ところで、楼夷(るい)! 今度、許可なくこんな事をしたら承知しないからね!』」

 一瞬の出来事に、状況を理解できない2人。

 閉じていた目を薄っすら開け、辺りを見渡し呟く吒枳。同じように力なく(くずお)れる素振りで、地面へ横たわる伊舎那。掌を胸元へ当て、溜息混じりに言葉を放つ。

「『そんなぁー。せっかく時間が節約出来たのに、感謝して欲しいぐらいだよ!』」
「『――はぁっ!? 聞いていなかったの楼夷(るい)!! 私は先ほど何て言ったのかしら?』」 

 唇を尖らせ落胆した表情で呟く楼夷亘羅。その言葉に、声高な様子で聞き返す伊舎那。

「『いや、だから……』」
「『――なに!? 声が小さくてよく聞こえないわ。もう一度、私に分かり易く教えてくれない!』」

 目元を吊り上げ、威圧的なまなざしで見つめる伊舎那。そのため、何も言えず口ごもりする楼夷亘羅。

「『――うっ。い、いえ何でもありません。伊舎那さんの言う通りにします……』」

 俯き囁く声で、当たり障りのない言葉を選ぶ楼夷亘羅。僅かな時が沈黙した2人の周囲を包み込む。そうした雰囲気を可哀想に思ったのか? 擁護(ようご)するかのように、話題を変え論点をすりかける吒枳。

「『それにしても、楼夷亘羅は本当に凄いですよね。大僧正様ぐらいにならないと、空中を飛ぶことなんて出来ないのに。どういう原理で浮いているんでしょうね?』」
「『……それもそうね? 位が高くても飛べない聖人は、羽衣を纏い飛んでいるみたいだけど……』」

 不思議そうな顔で楼夷亘羅を中心に一周ぐるりと歩き、身体を上から下まで眺める吒枳。

「『その天衣があれば、僕も自由に空を舞う事が出来るんですかね?』」
「『そうよ。でも、羽衣は中々作り手がいないから、順番待ちみたい』」

 伊舎那が先程から口にする羽衣は一体何なのか? それは、雲のような透き通る錦の糸で編み上げた天衣の事である。いくら位が高かろうが聖人は羽衣を纏わなければ空中を飛ぶ事など出来なかった。

 その羽衣と呼ぶ浮遊する天衣。織る際に生命力を極度まで消耗するため、作り手の職人がおらず今でも品薄状態だという。

「『2人はそうやって(うらや)むけど、初めは結構大変だったんだぜ!』」
「「『――大変?』」」

 自分達にもそうした能力があればと話す2人。とはいうものの、今のように慣れるまでは困難な事もあり、一筋縄ではいかなかったという。何故なら、いつも朝起きれば決まって天井へ張り付いていたからだ。

「『そうなんだよ! あれっ? ――ってな感じで目を開けると、いきなり床へ叩きつけられたものでね。最初の頃は扱い方を知らないから、しょっちゅう飲まず食わずで浮いた状態だったかな……?』」
「『あはは……。そっ、そう。それはそれで、中々大変そうね』」

 幼い頃から周りが羨む天舞の技が使えていた楼夷亘羅。ところが、会得するまでには血のにじむような思いがあり、度々目が覚めると蜘蛛のように壁へ張り付き苦労したという。

 そうした苦労話に、引き攣った顔で相槌を打つ伊舎那であった……。