切なく・悲しく・愛しく・想い、幾年も逢えない気持ちを耐え凌ぐ。そして、そっと頬に掌を触れ、名残惜しそうな面持ちで楼夷亘羅(るいこうら)へ別れを告げる月色(がっしき)。……どうしてそこまで辛く想うのか? もしかしたら、知っていたのかも知れない。婆羅門へ行けば、数年は逢う頃が出来ないのだと……。
           
 それから街を出た処世(しょせ)は、婆羅門へ帰還するために海を渡り山を越え、ようやく須弥山へ楼夷亘羅を連れて帰る。両親の件があった事もあり、心安らぐまでは大僧正の部屋で様子を窺う事にした。

 楼夷亘羅は10歳になったばかりだろうか? どことなく表情は幼くて、小柄な体型に黒く艶やかな瞳をしていた。そんな可愛らしい姿に、周りの聖者達は名前を問い掛け仲良くしようとする。

 ところが、幾人の聖者が声を掛けるも。楼夷亘羅です……。名前だけは答えるが、その一言だけ。それ以上の事は何も話さなかった。

 何故なら、数ヶ月前までの思い出はあるが、以前の記憶は欠落して覚えていない。果たして、それが本当の理由なのか? あるいは、両親の死から立ち直る事ができないのか? その想いは、本人しか分からない……。

 そうした理由から、他の者と打ち解けるまで何もさせる事なく、婆羅門の中を自由に徘徊させていた。そんな楼夷亘羅を見守るように、いつも遠くから天眼を使い切なげな表情で様子を窺う処世であった……。

 ――その処世が扱う天眼とは……。
 それは遠くの物を見通す法力であり、誰もが使える能力では無い。過酷な修練に耐えた大僧正だけに備わる力である。

 そんなある日の事、いつものように様子を眺めていたところ、ふと不可解な行動に違和感を覚える処世。目を細めじっくり観察するも、状況が理解できず一体、何をしているのか? そう常日頃から感じていた。

 楼夷亘羅は決まった時間になると、庭園の椅子に座り込み俯いた様子で何者かを見つめる。最初は周りを警戒しているのだと。けれど、そうではなく目で追いかけるように1人の女性を眺めていた。



「『なるほど……』」

 口元へ掌を当て、意味深に呟く処世。その状況を察するかのように、10歳の楼夷亘羅を女性のお世話係として命じる事にした。本来ならば、12歳でないと婆羅門へ入門する事は出来ないが、特例としてお世話をする事だけ許す。

 ――その女性は、伊舎那(いざな)と呼ばれ天部の聖者であった。

「『――とまぁ、そういった訳なんじゃ!』」
「『やっぱり……。あの時、僕が感じた感情は間違いじゃなかったんですね』」

 処世は思い悩む顔で悲しい過去を語り終える。すると、その話しを確信した表情で大きく頷く吒枳(たき)

「『そんな……。楼夷(るい)が私のことを? おかしいと思ったのです。婆羅門へ入門していない者が、お世話係をする自体。まさか、そういった経緯があったなんて……』」
「『――おやっ!? もしかして伊舎那は今の今まで知らなかったのか……?』」

 頬をほんのり赤く染める伊舎那。口元を掌で遮り、驚いた表情で唖然とする。そうした様子を窺う処世は、なんとまぁー! そう言わんばかりの顔で呆れていた。

「『はぁ……。やっと、気付いたのですか? ほんとにお互い鈍い人達ですよね。まぁ、似た者同士ってとこですか!』」

 2人の会話に口をはさむ吒枳。困った2人ですと、皮肉まじりに呟く。

「『――吒枳さん! その口はよく動くみたいですから、少しだけ閉じて差し上げましょうか?』」
「『いっ、いえ。その様な意味ではなく、価値観が同じで羨ましい! そっ、そう言いたかったのですよ。あはは……』」

 冷たい視線を浴びせながら掌を強く握る伊舎那。その素振りを見て、楼夷亘羅のように、あれ(鉄拳)を貰ったら一溜まりもない。少し身体を後退りして、身構える態度の吒枳。

「『まぁ、まぁ、2人共落ち着くんじゃ。そういう訳で、悲しい過去ではあった出会いも、それが原因で見つける事が出来た。でなければ、今も探す事など出来ずに大陸を彷徨っているじゃろう……』」

 切なそうに過去を振り帰る処世。その出来事で、梵字が左手に浮かび上がり、どうにか探す事が出来たと話す。

「『ふと、思ったのですが? 楼夷(るい)が私に花を摘んできてくれた時、手が泥で汚れているのかと思っていました。けれど、あれが梵字だったという事ですね!』」
「『そう、それが梵字という紋章のような物じゃ。全ての如来を従える程の力を持つ、王の証といっておこうか!』」

 ――その時の出来事を思い浮かべる伊舎那。いつも嬉しそうに、花を見せる姿を回想する。

 楼夷亘羅が花を摘んで見せに来た時、手の甲は必ずと言っていいほど微かに汚れていた。その汚れを拭い去ろうと、左手に触れようとする伊舎那。ところが、自分で落とせるからと言い、いつも掌を後ろへ隠していた。

 今となれば分かる気がする。文字のようなものが浮かび上がっては消える奇妙な左手。それを気味悪がられまいと、隠していた事を……。

 その浮かびあがる手こそ、王の証だという。吒枳が先ほど言っていた秘めたる力、修練次第で天部やそれ以外の聖者にも備わる梵字。それらの違いについて、処世は分かり易く話してくれた。

 楼夷亘羅の梵字は左手に顕現し、それ以外の聖者は右手に現れる。単にそれだけの違いではなく、右手に浮かぶ梵字は常に刻まれた状態である。ところが、左手の紋章は思いの力によって眩い輝きを放つ。その光は、顕現したり消えたりするという。

「『先程から聞いていましたが、楼夷(るい)が本当に王だなんて信じられません……。それに、本人は全然分かってないように思えますが?』」
「『そうじゃな。伊舎那が言うように、自分が全ての如来を従える王だとは、まだ気付いてはいないじゃろう。普通であれば王には過去の前世や記憶、それらの全てが受け継がれる。だが、今の楼夷亘羅は何かの枷によって、鍵がかかった状態になっているのじゃ!』」

 目を大きく見開き、驚きの表情を見せる伊舎那。その事について相槌を打つ処世は、ある理由が原因で記憶を失っている。そう含みを込めた言い方で悲しげに話す。

「『枷ですか……?』」
「『――もしかして……。それは死者を生き返らせようとしたから?』」

「『なるほど……。楼夷亘羅から、そこまで聞いていたとはな。――なら話が早い!』」

 何もかも知っていた状況に、思い悩んでいた処世も気持ちを固めた。この2人になら、何を話しても大丈夫であろう。そう心の中で呟き、全てを語る決意をする……。