♢♢♢
母親は最近家にいることが多くなった。
週末は毎回ほぼ決まって祖父母宅にいるというのに、今週は何故か自宅に帰ってきた。
夕食の準備をする母親の背に目線を送っていると濃紺のエプロン姿の母親がこちらへ振り返る。何?と言われ咄嗟に「今日の夕食って何?」と訊いた。
夕飯が何かなど気にしたことは一度もないのだが何か喋らないと、という思いが強すぎて思わず母親の眉間に皺が寄るほど唐突に声を出していた。
「さっき言わなかった?サバの味噌煮」
「聞いてなかった」
確かに記憶を辿れば母親が食器を片づけながら『今日はサバの味噌煮だから』と言っていたのを思い出す。
「そう、ちゃんと聞いておいてよ」
「何で今日はうちにいんの?いつもはあっちの家じゃないの」
母親はくるりと向きを変え、まな板の上にある茹でたほうれん草をカットする。
「俊介がね、お兄ちゃん寂しがっているんじゃない?って」
「…っ、」
「確かにそうかもしれないと思ったの。でももう蒼も高校生だしそのうち大学のために家を出ていく年齢になるのだし寂しいなんてことはないんじゃないかって思ってたんだけど。俊介が僕だったら寂しいよって」
自然に両手に拳を作り、呼吸がしにくい。
そう、俊介は何一つ悪いことはしていない。俺が勝手に避けて勝手に壁を作っているだけだ。
なのに俊介は会うたびに『兄ちゃん』と言って俺に本当の兄のように接してくる。
その温度差に俺はいつも目を閉じたくなる。耳を塞ぎたくなる。罪悪感も相俟って感情がぐちゃぐちゃになるのだ。相手は新しく家族に加わった弟で本来は俺が広い心で迎え入れてあげなければいけない。
『お兄ちゃんなんだから』
まるで呪縛のように俺を身動き取れないようにするそれは本当に嫌だ。大嫌いだ。
兄である以上、寛容になるべきだということも分かっている。でも親や周囲からそれを強要されるのは嫌だ。重くて苦しい、息が詰まりそうで水中の中で溺れているような感覚がずっと抜けない。
「そうなんだ。俺は別に大丈夫だから」
「そうよね。あ、そうだ、一時帰宅の件なんだけどなしになったの。俊介心臓悪いのに喘息持ちでしょう?喘息がまた悪化してきて。もう少しかかるかもしれない。でもそのうち家に帰って来られるわ」
「…分かった」
それだけ言うと俺は二階を駆けあがる。自分の部屋に行くと詩が俺のベッドを占領して眠っていた。
まだ夕方だというのに、すやすやと心地よさそうな寝息を立てていた。
彼女の胸が上下しているのを見て、ちゃんと呼吸をしているのにと思った。
母親は最近家にいることが多くなった。
週末は毎回ほぼ決まって祖父母宅にいるというのに、今週は何故か自宅に帰ってきた。
夕食の準備をする母親の背に目線を送っていると濃紺のエプロン姿の母親がこちらへ振り返る。何?と言われ咄嗟に「今日の夕食って何?」と訊いた。
夕飯が何かなど気にしたことは一度もないのだが何か喋らないと、という思いが強すぎて思わず母親の眉間に皺が寄るほど唐突に声を出していた。
「さっき言わなかった?サバの味噌煮」
「聞いてなかった」
確かに記憶を辿れば母親が食器を片づけながら『今日はサバの味噌煮だから』と言っていたのを思い出す。
「そう、ちゃんと聞いておいてよ」
「何で今日はうちにいんの?いつもはあっちの家じゃないの」
母親はくるりと向きを変え、まな板の上にある茹でたほうれん草をカットする。
「俊介がね、お兄ちゃん寂しがっているんじゃない?って」
「…っ、」
「確かにそうかもしれないと思ったの。でももう蒼も高校生だしそのうち大学のために家を出ていく年齢になるのだし寂しいなんてことはないんじゃないかって思ってたんだけど。俊介が僕だったら寂しいよって」
自然に両手に拳を作り、呼吸がしにくい。
そう、俊介は何一つ悪いことはしていない。俺が勝手に避けて勝手に壁を作っているだけだ。
なのに俊介は会うたびに『兄ちゃん』と言って俺に本当の兄のように接してくる。
その温度差に俺はいつも目を閉じたくなる。耳を塞ぎたくなる。罪悪感も相俟って感情がぐちゃぐちゃになるのだ。相手は新しく家族に加わった弟で本来は俺が広い心で迎え入れてあげなければいけない。
『お兄ちゃんなんだから』
まるで呪縛のように俺を身動き取れないようにするそれは本当に嫌だ。大嫌いだ。
兄である以上、寛容になるべきだということも分かっている。でも親や周囲からそれを強要されるのは嫌だ。重くて苦しい、息が詰まりそうで水中の中で溺れているような感覚がずっと抜けない。
「そうなんだ。俺は別に大丈夫だから」
「そうよね。あ、そうだ、一時帰宅の件なんだけどなしになったの。俊介心臓悪いのに喘息持ちでしょう?喘息がまた悪化してきて。もう少しかかるかもしれない。でもそのうち家に帰って来られるわ」
「…分かった」
それだけ言うと俺は二階を駆けあがる。自分の部屋に行くと詩が俺のベッドを占領して眠っていた。
まだ夕方だというのに、すやすやと心地よさそうな寝息を立てていた。
彼女の胸が上下しているのを見て、ちゃんと呼吸をしているのにと思った。