「よおおし!準備万全!」
 詩の声と同時に俺は部屋の時計に目を移す。ちょうど9時過ぎだった。
母親はつい先ほど家を出たばかりだ。
 そういえば、と思った。俊介が一時帰宅するかもしれないと言っていた。
どうなのだろうか、本当に戻ってくるのだろうか。戻ってくるとなると二階には頻繁に俊介のために母親が一階と行き来するだろう。

「どうしたの?」
「いや、行こう」
 詩が首を捻って俺の顔を覗き込む。今日の詩の恰好はいつものワンピース姿ではなく、ハーフパンツにTシャツだ。Tシャツだけ俺のものだからかなり大きいのだけどそれが絶妙に男心を擽る。
 ハーフパンツは意外と水着代が安かったから残りの金で購入した。細くて白い足にどうしても目がいってしまうから極力目線を下げないようにしている。
家を出てバスと電車を乗り継ぎ、海水浴場に到着した。
 今日は朝から晴天で海日和というところだろうか。詩はバスの中でもずっとソワソワしていた。

「日焼け止めとかって塗らなくていいんだよな?」
「多分大丈夫!」
「そっか。まぁ少し焼けた方が健康的に見えるかも」
「そうだね」
 海水浴場に到着する。既に海が広がっており詩は「きれーい!」と無邪気に走り出す。

「おい、人にぶつかったらダメなんだから走るなって」
「だって…!こんなに綺麗なんだよ。海なんていつぶりかなぁ。小学生低学年くらいに一度いったことあるけどそれ以来かな」
 こんなにも喜んでくれるのならば何度でも連れてきてやりたいと思った。
海も砂浜も俺にとっては感動するほどのものではないのだが、彼女は違うようだ。
 入退院を繰り返してきたからこういう景色を見ることは出来なかったのだろう。
 主に若い人たちが場所取りをして楽しそうに遊んでいる。
子連れも多かった。きっと夏休みだからだろう。

「そういえば…弟さんってどうしてるの?」
 砂浜に足を取られながら空いている場所を探して事前に持ってきていたシートを敷く。
それにドカッと腰を下ろすと詩がそう訊いた。

「さぁ。会ってないし」
「お見舞い行かないの?」
「行く予定はないかな」
 内心では動揺していたし、話したくない内容ではあった。でも、詩が先ほどまでの満面の笑みから神妙な顔つきになったから話題を変えることも適当に答えることも出来ない。